世界遺産と無形文化遺産
村山浅間神社
むらやませんげんじんじゃ
主情報
- 記載物件名
- 村山浅間神社
解説
詳細解説
村山浅間神社は、12世紀の修行僧である末代上人によって創建されたとされ、神仏習合の宗教施設として興法寺と呼ばれていた。 御神木であるスギの巨木を含め、鬱蒼たる社叢に覆われた境内には、鳥居、参道の奥に位置する社殿、その東側に位置する興法寺の堂宇としての大日堂、修験道の儀式に使用された護摩壇、道者が利用した水垢離場が含まれる。また、境内において実施した発掘調査では、16世紀に遡る敷地造成面及び17世紀以降の建物跡が確認された。なお、現在の大日堂には、1259年の紀年銘を持つ大日如来をはじめ、 修験道に関係する仏像などが安置されている。 14世紀初頭には、興法寺の僧侶であった頼尊が富士山における修験者を組織化したため、興法寺はその中心地として発展した。 15~16世紀になると、修験者に導かれた一般の道者の登拝も増加し、その様子が16世紀の製作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』にも描かれた。この図によると、道者は社殿への参拝を行い、水垢離を行った後に、興法寺の西側にかつて存在したとされる登山道を経て、富士山へと向かったことが知られる。 14世紀以降に興法寺が組織化した道者の多くは、富士山より西方の地域から登拝・巡礼に訪れた人々であった。それは、興法寺が当時の修験道の中心的寺院であった京都の聖護院と密接な関係を持っていたからだとされている。 1868年の明治政府による神仏分離令に基づき興法寺は廃止され、村山浅間神社及び大日堂に分離された。また、大日堂の北東の位置に所在し、末代上人を祀った堂宇についても、その祭神が変更されたほか、境内の北端付近へと移築されてしまった。さらに、1872年には修験道も禁止され、ほとんどの修験者は還俗した。ただし、一部の修験者の活動は、1940年代まで継続的に行われていた。