文化遺産オンライン

世界遺産と無形文化遺産

河口浅間神社

かわぐちあさまじんじゃ

主情報

記載物件名
河口浅間神社

解説

詳細解説

『日本三代実録』には、864~866年に起こった噴火を契機として、865年に富士山北麓に浅間神社が建立されたと記されている。19世紀の『甲斐国志』の記述によると、この神社が現在の河口浅間神社であったことが知られる。『甲斐国志』によると、1606年に社殿が焼失したが、翌年に再建 された。 参道を進み、大鳥居をくぐると、スギなどの御神木が立ち並ぶ神聖な空間となる。随神門を通り抜けると、7本のスギの巨木を含め、鬱蒼とした社叢に覆われて末社が建ち、中央に拝殿、その奥に本殿が建つ。 河口浅間神社を中心とする河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅としての役割に加え、富士山の登拝が大衆化するのに伴って、16世紀以降は御師の集落としても発展を遂げた。しかし、その後、江戸の庶民に富士講が大流行し、それに伴って吉田御師が大きく隆盛したことにより、19世紀以降には河口の御師集落は衰退した。 しかし、その一方で、河口浅間神社では、現在もなお富士山と密接な関係を持つ宗教行事が行われている。4月25日に開催される孫見祭では、同神社の祭神である木花開耶姫が、神社から孫の生まれた河口湖畔の産屋ヶ崎へと産着を持って神幸する。古くは、浅間大神の神霊を鎮めるために、河口湖畔の産屋ヶ崎の岩塊の上から富士山に向かって奉幣が行われたとされる。特に多くの道者で賑わった夏季には、河口浅間神社の境内において太々御神楽祭が行われ、参集する道者の祈願成就を目的として、御師たちにより太々神楽が奉納された。現在、太々御神楽祭は毎年7月28日に行われている。また、孫見祭及び太々御神楽祭に際して河口の子ども達が拝殿において奉納する「稚児舞」は、いずれも太々神楽の巫女舞を源流としている。このような富士山の浅間大神に関係する伝統的な芸能は、御師集落としての機能が失われた現在においてもなお河口の地に継承されている。