世界遺産と無形文化遺産
二条城
にじょうじょう
主情報
- 記載物件名
- 二条城
解説
二条城は、1603年に徳川幕府が京都御所の守護と将軍上洛の時の宿泊所として造営し、1626年に天守、本丸御殿及び二の丸御殿に係る大規模な拡張、修復工事が行われ、現在の規模となった。現在の二の丸御殿はこの修復工事に由来する。 その後、維持の困難さから諸建築を漸次撤去、移築し、また、1750年に天守が、1788年には本丸御殿等が焼失した。 1867年には政府の所管となり、1871年には京都府所管とされた。次いで1884年に宮内省所管の離宮となり、1887年に二の丸御殿の屋根葺替等の大修理が行われ、1894年には1847年建設の旧桂宮御殿が本丸内に移築された。 その後、1939年に京都市に賜され、1949から1961年にかけて二の丸御殿の遠侍及び車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院、本丸御殿の屋根修理、二の丸御殿台所、御清所の半解体修理、及び、その他の門、櫓、土蔵等については破損状況に応じて修理が行われた。さらに、1973から1990年には本丸御殿と櫓門の半解体修理、及び二の丸御殿唐門等の屋根修理が行われた。一方、1972年以降現在まで二の丸御殿障壁画の模写が行われており、元の剥がれやすい障壁画と交換されている。原画は博物館において適切に保存されている。 二条城は桃山文化の精神を代表する文化資産であり、1788年の大火の難を逃れた二の丸御殿の6棟が国宝に、二の丸庭園が特別名勝に指定されているほか、旧桂宮御殿を移した本丸御殿や東大手門など計22棟の建造物が重要文化財に指定されている。 武家風書院造を代表する二の丸御殿の主要部は遠侍及び車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の各殿舎がつながった複合体であり、二の丸庭園の池に沿って雁行形に配されている。これらは一殿舎一機能の関係をつくりながら表から奥へと序列化され、内部においても、床の高さや天井の形態、座敷飾等によって各室が差異をつけながら配置されている。各室は部屋の目的に応じて障壁画が描かれ、欄間彫刻、飾金具、花熨斗形の釘隠し等が豪華に金飾されるなどの意匠が凝らされている。 遠侍及び車寄は、欄間彫刻などで装飾された入母屋造檜皮葺の車寄と、大きな妻飾りを正面に見せる遠侍で構成され、遠侍は城へ参上した大名の控室である虎の間と、朝廷からの使者を迎える勅使の間等から成っている。 式台は将軍に対する用件や献上品の取りつぎをする場であり、式台の間と老中の間とから成る。 大広間は公式の対面の場で、最も格の高い上段の間から序列的に二の間、三の間、警護の武士の控えた槍の間とから成る。上段の間は床を一段上げ、二重折上格天井とし、床の間、違棚、付書院、帳台構を配した書院造の典型的座敷飾をみせている。 黒書院は大広間から金箔貼壁の渡廊である蘇鉄の間でつながれている。親藩大名等との内向きの対面所であり、大広間と同様の書院造であるが規模が小さくなっている。 最も奥の白書院は将軍の居間と寝室である。規模がさらに小さい書院造で、障壁画が淡彩の山水画となるなど装飾が落ち着いたものとなっている。 二の丸御殿の西側に大広間から眺められるように造られた二の丸庭園は、屈曲の多い池を地表面から低く下げて掘り、その法面や護岸に多数の派手な石組を配するとともに、池中に三つの島、奥に三段の滝を設けた池泉廻遊式の庭園であり、その力強い意匠は豪壮な建築群とよく調和している。