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上平村菅沼地区

主情報

記載物件名
上平村菅沼地区

解説

詳細解説

 菅沼集落はわずか戸数8戸、人口40人(1994年8月現在)の小規模な集落である。しかしながら、1889年の記録によると、当時、菅沼は13戸で、上平村の19の集落の中では9番目に戸数の多い集落であり、その意味では上平村にあっては標準的な規模の集落であったといえる。  集落は庄川が蛇行しながら東へ流れを変える地点の右岸の、南北約230m、東西約240mの舌状に北に突出した河岸段丘面にある。標高は330m前後で、ほぼ平坦な地形であるが、南東部がやや高く、それより北西方向に7mほど緩やかに下がっている。段丘の南背後は急傾斜の山地となっている。保存地区は屋敷地と耕作地で構成される平坦部の範囲である。なお、ブナ、トチ、ミズナラなどの大木が生い茂る集落背後の山腹は木の伐採が禁じられていて、雪持林として保存されている。  屋敷地は平坦部の南東に寄せられている。いずれの家も板倉や土蔵などの附属屋を有しているが、主屋に近接して建てられているものはわずかで、多くは離れた場所に建てられている。したがって、主屋と附属屋で屋敷を構えることはなく、それぞれの敷地は狭く、また、周囲に塀や生け垣も設けていない。  耕作地としては、集落の北西部の低い土地にまとまった水田があるが、このほかに屋敷地の周囲にも小規模で不整形な水田と野菜や豆類を栽培する畑がある。水田は以前は桑畑などを栽培していた土地であったが、1945年に対岸より水を引いて水田化したものである。  菅沼集落の守り神である神明社は、南東部北寄りのやや小高くなった場所にあり、その周囲を杉林が囲んでいる。神明社は古くは現在地よりもやや南東の土地にあったが、1937年に南背後傾斜地の国道脇に移転し、さらに1970年の国道拡幅工事に伴って現在地に移されている。  菅沼集落の伝統的建造物群の主体をなす建築物は、「合掌造り」の家屋である。これらの合掌造り家屋に加えて、非合掌造りの木造家屋、これらの附属建物である土蔵、板倉および水車小屋、宗教建築などの建築物28棟と、石造工作物2件によって伝統的建造物群が構成されている。  保存地区内に現存する合掌造り家屋は9棟である。これらのうち、2棟は江戸時代末期(19世紀前~中期)、6棟は明治時代に建てられたものである。このほか、1925年に新築されたもの1棟があり、この時代まで合掌造り家屋がつくられていたことがわかる。  平面は四間取りを基本としているが、規模の大きいものでは六間取りとなり、また、梁間の小さい家屋には広間型三間取りのものも見られる。各家屋は妻側に半間ほどの下屋を造り、その中央寄りに出入口を設けている。現在は下屋の屋根を鉄板茸きにしている家屋が多いが、本来は茅葺きであり、大屋根との取り合いを葺き回すので、一見、入母屋風屋根となり、平側に出入口を設ける白川郷の合掌造りとは異なった外観を呈している。  非合掌造りの木造家屋は1916年頃、1933年、1949年に建てられた3棟である。柱梁、束立構造による2階建で、1棟は茅葺き、2棟は桟瓦葺き(うち1棟は当初は茅葺き)である。非合掌造りの木造家屋の存在は、菅沼集落の家屋の形式の変化を具体的に示すものであり、また、現在では集落の景観に調和しているので、伝統的建造物群を構成するものとしての価値が認められている。  附属建物は板倉10棟、土蔵3棟、水車小屋1棟である。板倉のうち2棟は木造平屋建、8棟は2階建である。叉首構造、茅葺き屋根のものが3棟あり、他は切妻造り、桟瓦または鉄板葺きであるが、明治時代に建てられた3棟は当初は叉首構造の茅葺き屋根であったと見られる。土蔵は3棟あり、土蔵造り2階建、切妻造り、置き屋根形式、桟瓦葺き(うち1棟は当初、木羽茸きであった)である。なお、板倉と土蔵は火災を考慮して、居住部分からやや離れた場所に建てられている。特に、家屋のない神明社の周辺には、板倉、土蔵合わせて13棟のうち半数以上の7棟が集まっている。水車小屋は保存地区の南辺中央西寄りの水路脇にある。木造平屋建、切妻造り、鉄板葺きの小屋である。  宗教建築は神明社の本殿覆屋と拝殿の2棟である。本殿石屋は切妻造り、鉄板葺き、拝殿は入母屋造り、銅板葺きである。また、工作物は神明社の石造の鳥居と狛犬の2件である。  環境物件は湧水池と神明社の社叢の2件である。