文化遺産オンライン

世界遺産と無形文化遺産

熊野参詣道中辺路

くまのさんけいみちなかへち

主情報

記載物件名
熊野参詣道中辺路

解説

 三霊場に対する信仰が盛んになるにつれて形成され、整備された「大峯奥駈道」、「熊野参詣道」、「高野山町石道」と呼ばれる三つの道です。これらの道は、人々が下界から神仏の宿る浄域に近づくための修行の場であり、険しく清浄な自然環境のなかに今日まで良好な状態で遺り、沿道の山岳・森林と一体となった文化的景観を形成している。  「熊野参詣道」は、「熊野三山」に参詣する道で、京都方面からの参詣のために最も頻繁に使われた「中辺路」、「高野山」との間を結ぶ「小辺路」、紀伊半島の南部の海沿いを行く「大辺路」、伊勢神宮との間を結ぶ「伊勢路」からなっている。

詳細解説

 霊場「熊野三山」は、宮都である京都からも日本の各地からも遠い紀伊半島南東部に位置するため、参詣者のそれぞれの出発地に応じて複数の経路が開かれた。  「熊野三山」に至る参詣道は、経路によって大きく三種類に分類できる。その第一は紀伊半島の西岸を通行するもので、文献史料には「紀路」と見える。この経路はさらに途中で二本に分岐し、紀伊半島を横断して山中を通る「熊野参詣道中辺路」と、海岸沿いを通る「熊野参詣道大辺路」となる。第二の経路は、紀伊半島の東岸を通る「熊野参詣道伊勢路」で、文献史料には「伊勢路」と記されている。第三の経路は、紀伊半島中央部を通り、霊場「高野山」と「熊野三山」を結ぶ「熊野参詣道小辺路」である。  熊野三山への参詣は10世紀前半から始まり、15世紀頃まで盛んに行われた。多数の参詣者が列をなして進んだことから、「蟻の熊野詣」と形容された。その後、熊野三山だけを目的とする熊野詣は衰退するが、民衆の社寺参詣が盛んになる17世紀以後は、多い年で年間3万人ともいう西国巡礼者が訪れた。彼らは伊勢神宮への参詣の後、熊野参詣道伊勢路を利用して最初の巡礼地(札所)である那智山の青岸渡寺へと向かい、その途中で熊野三山のひとつである熊野速玉大社(新宮)に参詣した。また、西国巡礼者は青岸渡寺から熊野参詣道中辺路を利用して次の巡礼地へ向かうが、途中で熊野本宮大社にも参詣した。  このように、中世に「熊野三山」への参詣に利用された熊野参詣道は、近世には「熊野三山」への参詣をも含む西国巡礼の経路とされ、引き続き盛んに利用されてきた。また、今日では、熊野参詣道は、名所旧跡としての神社や仏閣を訪ね歩く人々にとっても、著名な経路としてよく知られている。 熊野参詣道中辺路は、京都あるいは西日本から熊野三山へ参詣する道筋のうち最も頻繁に使われた経路で、紀伊半島西海岸の田辺から半島を横断するように東方へ進み、「熊野三山」を巡る道である。10世紀前半を最初として参詣者の記録が数多く遺されている。推薦資産に含まれる熊野参詣這中辺路は、広い意味での熊野の神域の人口とされる「滝尻王子跡」から、約40km東の熊野本宮大社を経て、熊野速玉大社、熊野那智大社、青岸渡寺を巡る10世紀前半以来の参詣道と、熊野本宮大社から温泉による垢離の場である湯峯温泉に至るI.8 kmの「大日越」の道を含む区間である。熊野本宮大社と熊野速玉大社の間は熊野川の舟運を利用することも多いが、その他の大部分の行程は険しい山道である。道の途中に熊野神の御子神を祀った「王子」もしくはその遺跡が点在するのが最大の特徴であり、推薦資産には、21ケ所の「王子」と茶屋跡等の遺跡13ケ所が含まれる。後に熊野参詣の社会風習化を促進することとなった11~13世紀の上皇及び貴族の参詣に際しては、これらの王子において、修験者の指示に従って奉幣、読経といった 神仏混淆の宗教儀式のほか、法楽のための舞、相撲、和歌会などが随時行われた。また、15世紀に数が増し、17世紀以後は全国から訪れるようになった西国巡礼者が利用した道である。