文化遺産オンライン

世界遺産と無形文化遺産

銀山柵内

ぎんざんさくのうち

主情報

記載物件名
銀山柵内

解説

 銀山柵内は、面積約320haの銀鉱山跡である。銀山柵内には16世紀から20世紀に至る間の坑道や製錬及び精錬の作業場兼住宅地などの生産・生活に関わる遺跡をはじめ、これに密接に関連する城や役所など支配に関する遺跡、寺社や石塔などの信仰に関する遺跡などが良好に残されている。

詳細解説

 銀山柵内は、面積約320haの銀鉱山跡である。銀山柵内には16世紀から20世紀に至る間の坑道や製錬及び精錬の作業場兼住宅地などの生産・生活に関わる遺跡をはじめ、これに密接に関連する城や役所など支配に関する遺跡、寺社や石塔などの信仰に関する遺跡などが良好に残されている。  銀山柵内と呼ぶ鉱山の地域では、採掘から選鉱・製錬・精錬に至る銀生産の諸作業が一貫して行われた。  採掘の跡は銀を埋蔵した仙ノ山のほぼ全山に及び、現在までに600ヶ所以上もの地点において確認されるなど、多坑の特徴がある。それらは、地表面に残る露天掘りの跡と、鉱脈を地中に掘り進んだ坑道掘りの跡の2種類に大別できる。前者は仙ノ山の山頂付近から南側に位置する谷筋一帯によく残り、後者は銀山柵内の谷部にほぼ全域に見られる。坑道の内部には、鉱脈を追って金槌と鏨で掘り進めた人力掘削の痕跡が夥しく残されている。選鉱から精錬に至る一連の過程は、柵内に設けられた作業場で行われた。  山の尾根筋から谷間にかけての地域には、人為的に削平にされた大小の平坦地が全部で、1,000ヶ所以上もの地点において確認されている。このような平坦地は16世紀以降の生産と居住が一体として営まれた作業場が存在した場所であり、居住地に近接して採掘作業が併行して行われたことを示す生産活動の最小単位であった。石見銀山では、このような小さな単位において高品質の銀が生産され、多数の単位が集積することによって大量の銀生産が行われていた。  このような生産の在り方を示す遺跡は、仙ノ山の山頂部付近や山麓に当たる谷部の傾斜面で実施された発掘調査により明らかにされている。  仙ノ山山頂付近の石銀藤田地区から出土した生活遺物には、国内産の陶磁器のみならず、中国・朝鮮などで生産された高価な陶磁器や嗜好品をも含んでいる。このことから、16~17世紀における石見銀山の文化水準は、京都や大坂など当時の日本国内の主要都市にも匹敵するものであったことがわかる。  19世紀後半の近代化の時代に入ると、欧米の技術が導入されて機械化が進んだ。しかし、採掘に当たっては基本的に江戸時代の採掘坑道を踏襲して掘進作業が行われた。 一方、近代における製錬及び精錬は主に仙ノ山北東側の清水谷地区と要害山北西側の柑子谷地区において集中的に行われ、この2つの地区には近代の精錬施設の遺跡が残された。 清水谷精錬所跡は1895年に建設された大規模な近代的精錬所の遺跡であり、基礎石垣、選鉱施設跡、トロッコの軌道跡などが良好に遺存し、当時の一代銀生産設備の様子を知ることができる。また、柑子谷精錬所は1896年から1923年の休山に至るまでの近代石見銀山の鉱山開発の拠点となった場所であり、選鉱場・煙道・鉱夫住宅などの工場施設群の一部が遺存している。  信仰に関連する要素には多くの神社・寺院・小祠などがあり、鉱山活動に伴って集住した人々の精神生活の痕跡を示している。現在、寺院又は寺院跡が谷部を中心に約70ヶ所存在する。また、この寺院又は寺院跡に付属する墓地及び単独で存在する墓地には、当地で亡くなった人々の墓石や供養塔が、地表面において確認できるものだけでも6,000点以上存在する。これらは、かつてこの山中に多くの人々が集住したことを示している。 神社は4ヶ所に存在し、さらに寺の敷地内の造営された境内社も7社が存在する。その中でも、鉱山の神を祀る佐毘売山神社は、仙ノ山の鉱山への入り口付近に位置する。記録によると1434年に創建されたと伝えられ、銀山の支配者や鉱山労働者の崇敬を集め続けた。現在の社殿は19世紀前半の建物であり、国内に遺存する同様の鉱山神を祀る神社としては最大級の社殿を誇る。現在でも、毎年4月と9月に地域住民によって祭りが継続されている。  支配に関連する要素には、山城跡・役所跡・柵列跡・番所跡がある。それらは時代によって機能が消長し、位置も変遷した。 石見銀山の本格的開発の時期から17 世紀初頭にかけて、鉱山支配の中枢は銀山柵内の要害山とその山麓付近にあった。16 世紀には銀山支配の拠点として要害山に山吹城が築かれたが、現在でも山頂部に防御単位の中核である平坦地、空堀、石垣などが明瞭に残っている。また、16 世紀後半には日常的な政務が要害山南麓の銀山地区で執り行われており、現在でも休役所跡や大規模な石垣などが残っている。これらの支配関連施設は、17世紀に入り支配の拠点が要害山麓から大森地区に移されるまで機能した。  17 世紀に入ると、日本国内の鉱山は政治的に厳重な管理下に置かれ、他所と明確に区分されて支配されることとなった。石見銀山においても、16 ~ 17 世紀にかけて周囲8㎞にわたって木柵が巡らされた。その要所である出入り口には番所が設けられ、最も多い時には10 ヶ所を数えた。17 世紀半ばから19 世紀半ばまで柵内の範囲が変化することはなかった。