鳥海柵跡 とのみのさくあと

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城跡 / 平安 / 東北 

岩手県
平安
岩手県胆沢郡金ケ崎町
指定年月日:20131017
管理団体名:金ケ崎町(平27・3・11)
史跡名勝天然記念物

 鳥海柵跡は、北上川と胆沢川の合流点から西北西約2.5キロメートルの地点に位置する金ケ崎段丘南東端付近に築かれた安倍氏の柵跡と考えられる遺跡である。また、遺跡の南東、北上川を挟んで約2キロメートルの地点には、胆沢城が所在する。
 永承6年(1051)、陸奥守藤原登任と安倍頼良との武力衝突からはじまる「前九年合戦」は、清原氏の参戦を得た源頼義軍が、康平5年(1062)9月に厨川柵・嫗戸柵(ともに盛岡市付近)を陥落させたことにより終結するが、その後、「後三年合戦」(永保3〜寛治元年、1083〜1087)を経て、奥州の支配権は藤原清衡に始まる奥州藤原氏へと移ることとなる。11世紀前半の安倍氏の時代は平泉を中心とする奥州藤原氏の時代の前史と位置づけられる。
 遺跡は、標高50〜60メートルの台地上に立地し、その南側には胆沢川左岸の氾濫原が広がっており、遺跡が立地する台地と低地との比高差は約10メートルである。この台地は、東から抉入する3条の開析谷によって、4つの区画に分かれており、北から「縦街道南」「原添下」「鳥海」「二ノ宮後」という地名が残る。その規模は、南北約500メートル、東西約300メートルと推定される。また、江戸時代の地誌である『安永風土記』は、この地が鳥海柵跡であるという伝承を伝えており、大正時代には「鳥海柵見取り図」という絵図も調製されている。
発掘調査は、昭和33年から40年にかけて、岩手大学が実施したのを皮切りに、昭和47年から50年には、東北自動車道建設に伴い、財団法人岩手県埋蔵文化財センター(当時)が実施している。これらの発掘調査では、11世紀前半から中頃にかけての複数の竪穴建物や掘立柱建物、柱…

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