肥前国庁跡
ひぜんこくちょうあと
概要
肥前国庁跡は、筑紫平野の西部、背振山地に源をもつ嘉瀬川が形成した扇状地の扇央付近に位置する。この地域は、古くから肥前国府の故地に比定されていた所であり、発掘調査の結果もそれを裏付けた。
佐賀県教育委員会は、昭和五十〜五十九年の一〇年間、この地の発掘調査を実施して、国庁跡の規模と内部構造をほぼ明らかにした。国庁域は築地〓(*1)で区画され、その規模は築地外溝の心々で東西七七・二メートル、南北一〇四・五メートルである。門は調査区の関係で、南門のみの検出であるが、築地が内側に折れた入門であったことが明らかとなっている。規模は東西三間(六・九メートル)、南北二間(四・五メートル)であり、二度の建替が認められ、最初は掘立柱建物であったのが、最後は礎石建物に変えられている。
国庁域内で発見された建物は、すべて掘立柱建物であり、南門、前殿、正殿、後殿は、いずれも建物中軸線をそろえて南北に配列されており、この中軸線は国庁域の中軸線ともなっている。さらに、前殿の西側には、西妻をそろえた南・北二棟の脇殿が検出されており、未確認ではあるが東側にも同様の建物の配されていたことが予想できる。これは、正殿の西側に取りつく回廊についても同じである。
前殿は、東西七間(二〇・八六メートル)、南北二間(五・四メートル)の東西棟で、一度の建替がある。正殿は、東西九間(二五・〇六メートル)、南北四間(一〇・八メートル)の四面廂付東西棟で、身舎は東西二〇・八六メートル、南北六・六メートルの規模を有し、廂の柱間は二・一メートルとなっている。建物の西妻中央部から、単廊形式の回廊が西に伸び、西面築地に取りついている。回廊は東西九間(二四・三メートル)、南北一間(二・七メートル)の規模である。なお、正殿と回廊には建替が認められていない。後殿は、東西七間(二〇・八六メートル)、南北二間(五・四メートル)の東西棟で、一度建替られている。この前面に目隠〓(*1)かと考えられる、東西方向の掘立柱柵列がある。前殿の西側で発見された二棟の脇殿は、いずれも東西二間、南北七間の南北棟で、一度ずつ建替られている。北側建物の規模は、東西五・〇メートル、南北一七・五メートルであり、南側は東西五・三メートル、南北一九・二メートルとなっている。
遺物は須恵器・土師器などの土器類や屋瓦類が大量に検出されている。土器類では七世紀後半代のものも若干出土しているが、八世紀代-特に後半代-のものが圧倒的に多く、九〜十世紀代のものはそれほど多くはない。屋瓦類では、鴻臚館系のものが主流を占めているのが注目される。このことは、国庁域内の建物配置が大宰府都府楼のそれに類似する現象と共に、大宰府との関係を考えさせるからである。
以上が国庁跡の概要であるが、この他に国庁域周辺で国府関連遺跡と推定される遺跡がいくつか調査されている。第一は、国庁南門から南へ向かう道路であり、これは国庁域の南約六〇〇メートルを東西に走る西海道に続く南大路と考えられるものである。また、国庁域の西北約四〇〇メートルの久池井六本杉遺跡では、基壇をもつ三棟の大型建物が一群をなし、西北約二〇〇メートルの惣座遺跡には倉庫群と考えられる総柱建物群がある。さらに東北約二〇〇メートルの久池井B遺跡では、三棟の大型建物群が検出されている。このような遺構の広がりは、国庁域を中心に東西約四〇〇メートル、南北約四〇〇メートルとなっており、その解明は今後に残された課題である。
肥前国庁跡は、わが国の国庁跡の中では、発掘調査によってその内容が明らかにされた少数例であり、周辺において国府関連遺構が多数発見されている極めて重要な遺跡である。よってここに本遺跡を指定して、その保存を図ろうとするものである。