筑後国府跡
ちくごこくふあと
概要
筑後国府跡は、筑紫平野の南辺を西流した筑後川が流れを大きく南へ変える下流左岸、久留米市合川町から御井町にかけての標高十数メートルの低台地上に位置する。
昭和36年に九州大学により同町字阿弥陀で行われた発掘調査により、築地跡、掘立柱建物跡の遺構や瓦、円面硯等の遺物が発見され、同地区に奈良時代の大規模な官衙が営まれたことが確認された。
昭和47年からは久留米市教育委員会が発掘調査を実施し、これまでに時期を異にする大規模な官衙跡を4ヶ所で確認し、国府が三遷する様相を明らかにしている。それらは所在する字名をもとに、古官国府(第1期国府、7世紀末〜8世紀前葉)、枝光国府(第2期国府、8世紀中葉〜9世紀)、朝妻国府(第3期国府、10世紀〜11世紀中葉)、横道国府(第4期国府、11世紀後葉〜13世紀)と仮称されている。また、調査では、第2期国府の時期に営まれ、国庁同様の規模を持つ国司館跡と推定される遺構の詳細も明らかになった。今回指定を図るのは、第1期国府の推定国庁跡の一部と第2期国府に伴う推定国司館跡の一画である。
国司館跡は、第2期国府の国庁跡(合川町字阿弥陀)の東南約100メートルにあり、小谷をはさんで国庁跡に対置する。第2期国府が営まれる8世紀中葉以降、4期にわたる返還が認められるが、とくに最終期にあたる9世紀第24半期から第44半期にかけての時期に顕著な施設が営まれている。
筑後国府は古代から中世前期までの国府の移転・存続が考古学的に実証された希有の例であると共に、国庁と国司館地区との対になる様相が解明され、しかも国司制度上の大きな変化が進行する時期の国司館跡の実例を示した点でも極めて貴重な例である。よって、史跡に指定しその保存を図るものである。
今回追加指定をしようとするのは、Ⅰ期国庁よりもさかのぼる時期の建物である。筑後国府の発掘調査ではこれまでにも、7世紀中頃から後半にかけての遺構が数多く確認され、国府の成立以前に官衙的性格の施設の存在が推定されてきた。このたび宅地造成に伴う発掘調査により、梁間3間、桁行5間、床面積63平方メートルで南に廂もしくは目隠し塀を伴う掘立柱建物と、同じ規格で床面積109平方メートルで四面廂をもつ掘立柱建物が検出された。直接的に時期を示す遺物は出土していないが、いずれも7世紀中頃と考えられる東西棟で、前者から後者へと建替えられている。これに伴う建物や区画施設などは明らかではないが、重要な官衙施設としての機能をもつ建物であったと考えられる。
これらの掘立柱建物は、筑後国府の成立過程を知る上で極めて重要な遺構であり、追加指定し、保護の万全を図ろうとするものである。