備後国府跡
びんごこくふあと
概要
広島県南東部に位置する古代備後国の国府跡。『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』に「国府在」とみえる葦田(あしだ)郡に属するため国府所在地と推定されており,昭和42年度以降の発掘調査によって考古学的裏づけが与えられた。ツジ地区では8世紀を中心にほぼ方一町の区画溝に囲まれた規模の大きい掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)群が建ち並び,区画溝を失った9世紀以降も大型建物が礎石建物(そせきたてもの)に建て替えられ,10世紀末まで存続した。出土遺物には国府系瓦,腰帯(ようたい)具,陶硯(とうけん)や,須恵器・土師器の供膳(きょうぜん)具とともに,備後国内では他に例をみない量の国産施釉陶器や貿易陶磁器が12世紀まで連綿と認められることから,ツジ地区には文書行政,給食,饗応などに用いられた備後国内で最も格式高い施設のひとつが存在したと考えられる。この他,礎石建物や苑池遺構を検出した金龍寺東(きんりゅうじひがし)地区や伝吉田寺をはじめ,官衙(かんが)関連遺物が出土した他の施設の多くでツジ地区と同笵の平城宮式軒瓦が共有されるため,これらが広域で一体的に機能した国府の多様な構成要素として理解することが適当と考えられる。備後国府跡は,8世紀から12世紀にかけて,国府の成立から衰退までの変遷を知ることができ,古代の地方支配の実態を知る上で極めて重要である。