じょうべのま遺跡
しょうべのまいせき
概要
本遺跡は、富山湾岸の東端部、黒部川の右岸扇状地の末端近く海岸線に接して所在する平安初期の荘家跡である。
昭和45年から昭和48年にかけて入善町教育委員会は、同町北部の土地改良事業の実施に先だち、4次にわたる緊急発掘調査を行なってきたが、その結果二間五間南廂(柱間2メートル以上)の東西棟を主屋とする建築遺構を中心に、6期にわたって建替えの認められる南北棟の脇屋(大部分柱間2メートル以上、廂・間仕切り等を備えるものあり)が東西に配置され、これらを囲む柵列・溝、更に海岸に面して潟の痕跡、その他の建築遺構が検出された。また、出土遺物も多数の土師器・須恵器・木器類と共に文書風木簡、「西庄」と読める墨書土器数点、緑釉・灰釉陶器、風字硯、杯蓋硯等を検出、木遺構が平安初期の荘家跡を中心とする遺跡であることが判明すると共に、その荘家の機能の一つとして荘園物資の海上輸送の基地としての性格も加味されるに至った。
この地方の荘園としては、奈良時代いらい東大寺領丈部[はせつかべ]荘、大荊[おおやぶ]荘、西大寺領佐味[さみ]荘、平安末鎌倉時代には東大寺領入善[にゅうぜん]荘等が置かれたことが文献によって知られているが、本遺跡については上記の調査過程においても東大寺領・西大寺領の両説が提起され未だ確定をみない。
入善町教育委員会は、このような事態に対処して昭和49年第5次の発掘調査を荘家跡の建築遺構の周辺部に対して行ない、若干の建築遺構のほか、注目すべきものとして「丈部吉椎丸上白米五斗」と認める付札様木簡等の検出をみた。もちろん、これによって本遺跡を丈部荘と断定するのは早計であるが、墨書土器の「西庄」から西大寺領説を導き出すことにも難があり、「西庄」はむしろ「東庄」に対するものと考えるのも自然であるから、「丈部吉椎丸」から丈部集団の存在が想定されるとすれば、本遺跡が丈部西庄として東大寺領であった可能性がないとはいえない。
したがって本遺跡は、今後における発掘調査に期すべき点が多いのであるが、先に指定した東大寺領横江荘荘家跡(石川県)、高瀬遺跡(富山県)と共に、奈良時代から平安時代にかけての南都諸大寺の荘園支配の動向を考える上で重要な遺跡であり、周辺部に鎌倉時代の遺構も若干検出されているが、今回は平安初期の荘家跡を中心とする部分を指定保存する。