柳之御所・平泉遺跡群
やなぎのごしょ・ひらいずみいせきぐん
概要
岩手県南部の北上盆地南端に奥州藤原氏三代の根拠地として著名な平泉がある。藤原氏は平安時代末期に奥羽地方に権勢を誇り、その造営にかかる中尊寺、毛越寺、無量光寺などの遺構は特別史跡として保存され、往時の面影を伝えている。柳之御所遺跡はその東北部、北上川に面した台地上の柳之御所と称される地に所在し初代清衡、二代基衡の居館跡と言い伝えられてきた。建設省がこの遺跡を縦断する位置に平泉バイパスと一関遊水地堤防事業を計画したため、財団法人岩手県文化振興事業団と平泉町教育委員会は昭和六十三年から建設予定地内の発掘調査を実施した。その結果、平安時代末期の堀に囲まれた大規模な遺構などを発見し、これが藤原氏と密接に関連した重要な遺跡であることが判明した。そのため平成四年、五年には、遺跡の明確な時期や性格を把握することを目的に、県教育委員会と平泉町教育委員会が周辺の確認調査を実施した。
遺跡は北西から南東に流れる北上川を北に臨む台地上に立地する。その南側は猫間が淵と呼ばれている沢地に画され、川にそって帯状の形状を呈し、その範囲は最大長七二五メートル、最大幅二一二メートル、面積的一〇ヘクタールに及ぶ。遺跡は遺構のあり方から見て東西に二分される。東半部はそれに隣接する堀の外側の地区である。東半部を区画する堀は幅約一〇メートル、深さ約二から五メートルの規模ほもち、一部二重に北上川に面した北側を除いて巡っており、東西三〇〇メートル、南北二〇〇メートルほどの空間を形成している。堀の内外を結ぶ橋は二か所で確認されている。一方の橋は南側に位置する秀衡の居館とされる加羅御所跡との間に架けられており、堀内部の北側に向かって幅八メートルの道路が取り付き、塀で区画された部分に達する。塀の西側には複数の大型建物のほか園池や井戸などが存在する。建物には梁間四間、桁行九間の四面庇付の大型建物もある。建物、塀には三時期ほどの変遷が確認される。これらの遺構と質量ともに卓越した出土遺物は、この周辺が堀の内地区における中心的な空間であることを示す。
堀の外側の地区はほぼ中央に幅約七メートルの東西方向の道路があり、これに面して溝で囲まれた方形の区画が四つ確認される。それぞれの区画の内部には庇付の大型建物や井戸があり、堀の内部と関連した屋敷群と推定される。
出土遺物は種類が豊富で量もきわめて多い。かわらけ・白磁などの土器・陶磁器類、瓦、内耳鉄鍋・鏡・輪宝などの金属製品、食膳具・呪符・形代・建築部材などの木製品、硯などの石製品、動植物遺体などがある。いずれも東北地方では出土例が稀なものが多い。総出土量が十数トンにおよぶかわらけは、当時の平安京などで儀式の際に使用される使い捨ての食器とされ、儀式がさかんに執り行われていたことをうかがわせ、遺跡の性格を暗示する。このほか折敷の底板に墨書された寝殿造りの建物絵画や「人々給絹日記」という表題で人名を列記した文字資料も注目される。
出土した土器や折敷の年輪年代から、遺跡の中心的な年代は十二世紀後半に比定され、ほぼ秀衡の時代に相当する。また遺構・遺物の内容は、この遺跡が平泉において中心的な位置を占めていたことを強く示唆する。遺跡の南側には秀衡が建立した無量光院跡や、秀衡の日常生活の場とされる加羅御所跡の推定地があり、遺跡周辺は秀衡の時代に重要な施設が集中していたと推定される。『吾妻鏡』文治五年(一一八九)九月一七日条には、秀衡の館は無量光院の北にあって「平泉館」と呼ばれていたことが記されており、柳之御所遺跡の堀の内地区が秀衡時代の政庁、「平泉館」に比定される可能性もある。
この遺跡は、北上川を臨む台地上に立地し、大規模な堀で区画するという特異な構造の施設を中心に展開しており、奥州藤原氏の根拠地、平泉においても重要な位置を占めると考えられる。奥州藤原氏は奥羽地方に強大な勢力を伸張し、その地域独自の歴史を背景にしつつ、中世武士社会の成立過程においても重要な役割を果たした。遺跡の立地や構造にみる特異性は中世成立期の奥羽地方の特質を反映すると考えられる。これまで古代から中世の過渡的な段階における地方の支配拠点の具体的な様相はほとんど明らかにされておらず、この遺跡がもつ歴史的意義はきわめて大きい。よって史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。