鳥海柵跡
とのみのさくあと
概要
鳥海柵跡は、北上川と胆沢川の合流点から西北西約2.5キロメートルの地点に位置する金ケ崎段丘南東端付近に築かれた安倍氏の柵跡と考えられる遺跡である。また、遺跡の南東、北上川を挟んで約2キロメートルの地点には、胆沢城が所在する。
永承6年(1051)、陸奥守藤原登任と安倍頼良との武力衝突からはじまる「前九年合戦」は、清原氏の参戦を得た源頼義軍が、康平5年(1062)9月に厨川柵・嫗戸柵(ともに盛岡市付近)を陥落させたことにより終結するが、その後、「後三年合戦」(永保3〜寛治元年、1083〜1087)を経て、奥州の支配権は藤原清衡に始まる奥州藤原氏へと移ることとなる。11世紀前半の安倍氏の時代は平泉を中心とする奥州藤原氏の時代の前史と位置づけられる。
遺跡は、標高50〜60メートルの台地上に立地し、その南側には胆沢川左岸の氾濫原が広がっており、遺跡が立地する台地と低地との比高差は約10メートルである。この台地は、東から抉入する3条の開析谷によって、4つの区画に分かれており、北から「縦街道南」「原添下」「鳥海」「二ノ宮後」という地名が残る。その規模は、南北約500メートル、東西約300メートルと推定される。また、江戸時代の地誌である『安永風土記』は、この地が鳥海柵跡であるという伝承を伝えており、大正時代には「鳥海柵見取り図」という絵図も調製されている。
発掘調査は、昭和33年から40年にかけて、岩手大学が実施したのを皮切りに、昭和47年から50年には、東北自動車道建設に伴い、財団法人岩手県埋蔵文化財センター(当時)が実施している。これらの発掘調査では、11世紀前半から中頃にかけての複数の竪穴建物や掘立柱建物、柱列、幅8・5メートル、深さ最大3.2メートルの濠跡等が検出された。掘立柱建物の中には、櫓の可能性がある一間四方(東西3・4メートル、南北2・4メートル)の建物がある。また、濠は、台地を分割する北端の谷とその南側の谷との間を結ぶことが、その後の発掘調査により確認され、長さは145メートルに及ぶ。遺構の時期や巨大な濠の存在から、この遺跡が、伝承どおり鳥海柵跡である可能性が高まった。
平成17年度からは、金ケ崎町教育委員会が、遺跡の範囲や内容を確認するための発掘調査を実施している。遺跡のほぼ中央東よりでは、台地東端と谷とをL字に結ぶ濠が検出され、この濠と谷とによって方形に区画された部分の中央で、東西方向の掘立柱建物が2棟検出された。南側の建物は、身舎が南北2間、東西2間以上の四面廂付きの掘立柱建物であり、東西19.63メートル、南北11.22メートルである。濠からは、11世紀中頃の土師器が大量に出土していることから、これらの遺構は、この頃に廃絶したと考えられる。また、遺跡の北端付近で実施した発掘調査では、東西16.50メートル、南北12.58メートルの四面廂付きの掘立柱建物が検出された。この建物は、柱列が整然と並び、床束の柱穴をともなっていること、また、寸莎痕跡のある焼土塊が出土していることから、土壁で床張りの建物だったと考えられる。北側の廂柱列から円形土製品や鉄製品、柱状高台の土器底部が、付近からは水晶玉が出土しており、建物に対する何らかの儀式が行なわれた可能性が考えられる。さらに、この建物の南側では桁行1間、梁行2間の掘立柱建物が近接して検出されており、建物の軸線がほぼ一致することから一体の建物であった可能性も考えられる。建物の時期は、出土した土師器から11世紀前半と考えられる。遺構の状況等から、この建物は政治・儀式に関わる中心的な建物と推定される。
平安時代に書かれた『陸奥話記』には安倍氏が設けた12の柵が記されているが、その中心的な柵が「鳥海柵」である。『吾妻鏡』などによると、安倍頼良(頼時)の三男宗任が鳥海三郎と称していたとあることから、柵主は安倍宗任と考えられている。
『陸奥話記』の記載や、発掘調査の結果明らかになった遺跡の時期や内容から見て、当遺跡が鳥海柵跡である蓋然性は極めて高い。安倍氏の勃興期から全盛期にかけての状況をよく伝えているのみならず、律令国家による支配から自立し、平泉で結実する奥州平泉文化の起源を知る上で重要である。また、史跡大鳥井山遺跡や史跡柳之御所遺跡などとともに、東北で成立、発展した居館のあり方や都市計画の展開を知る上でも重要である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。