中尊寺境内 ちゅうそんじけいだい

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社寺跡又は旧境内 / 東北 

岩手県
西磐井郡平泉町
指定年月日:19790522
管理団体名:平泉町(昭55・8・19)
史跡名勝天然記念物

 藤原清衡は、後3年役後(1083〜)、陸奥・出羽両国における支配権をしだいに確立し、嘉保年間頃には本拠を平泉の地に移し、中尊寺の造立に着手、寺地を関山の地に卜して、大治元年(1126)にほぼ完成し、落慶供養が行なわれたといわれる。伽藍の造営は、清衡が大治3年に没して後も、2代基衡・3代秀衡の手によって続けられたと考えられる。
 文治5年(1189)、4代泰衡が源頼朝に討たれてのち、中尊寺は保護者を失い、また、建武4年(1338)、野火のため、一山殆どが焼亡してわずかに金色堂と経蔵の一部が劫火を免れただけとなったが、今なお山内には、古代末期の文化史上逸することができない名品や貴重な中世文書が残っている。
 中尊寺の堂塔の名・規模、安置の仏像等については、主として「吾妻鏡」の文治5年の記事や建武元年の中尊寺大衆訴状等によって、かなり子細を知ることができるが、その伽藍配置は必ずしも分明ではなかった。それを究明するため、平泉遺跡調査会(団長藤島亥治郎)が組織され、昭和34年から約10年間、山内各地の発掘調査が継続され、また、昭和51年には岩手県教育委員会による発掘調査が行なわれた。その結果、金色堂南東方の低地には、中島をもつ大池があり、大池の西方には古経蔵等があったこと、金色堂の北方、現弁天池の一帯には三重池があり、池の西方で金堂跡と思われる建物が検出され、また、経蔵・金色堂のある高地は今より狭かったこと、現大長寿院の北東方には二階大堂があり、その西方にも建物があったこと等が明らかになった。

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