石戸蒲ザクラ
いしとかばざくら
概要
天然紀念物調査報告(植物之部)第三輯 七九頁 参照
天然紀念物解説 一五七頁
蒲櫻 Prunus media Miyos ハ古来著名ノ巨樹ニシテ特殊ノ種類ニ属ス、根元ヨリ四本ノ支弁ニ分ル、根元ノ総周囲三丈六尺、各支幹ノ基部ノ周囲ハ東側ノモノ八尺二寸、北側ノモノ一丈六尺西側ノモノ八尺五寸、南側ノモノ一丈三尺アリ
令和3年 追加指定
石戸蒲ザクラは、埼玉県北本市に所在する東光寺境内にある桜の巨樹である。指定地は、川口市から鴻巣市にかけて広がる大宮台地の北西部に位置し、南側と東側が自然の谷に画され南東方向へ突出した舌状台地の先端にあたる。
石戸蒲ザクラの名前は蒲冠者(かばのかじゃ)の別名をもつ源範頼(みなもとののりより)に由来し、古くから蒲ザクラと呼ばれて親しまれてきた。大正5年(1916)、三好学博士がこれをヤマザクラの品種とし、Prunus mutabilis Miyoshi. f. subsessilis Miyoshiの学名を与えた(Miyoshi 1916)。Prunus mutabilisはヤマザクラP. jamasakura Siebold ex Koidz.の異名(シノニム)である。その後、大正9年(1920)にはヤマザクラとエドヒガンの中間の特徴を有するとし、三好博士自身がその学名をPrunus media Miyoshiと改めた(Miyoshi 1920)。この時、花や葉などの形態分析や、後に石戸蒲ザクラと共に天然記念物に指定される他のサクラとの比較がなされ、「特殊の桜」であることが強調された。現在では、ヤマザクラとエドヒガンとの自然雑種とされている。
指定当時には、根元から4本の幹が東西南北に広がり、根元の周囲約10.8m、各幹の基部周囲及び枝の広がりは、それぞれ東の幹約2.4m、約15m、北の幹約4.8m、約14.4m、西の幹約2.6m、約8.4m、南の幹約3.9m、約13.8mと記録されていた。この4本の幹のうちで現存するものは東の幹のみであるが、昭和50年代に南側の根元から生じた萌芽幹が大きく成長し6本の幹となり、幹周囲約1〜2.1m、枝の広がり約8〜11.7mとなっている。
蒲ザクラには、石戸に逃れてきたとされる源範頼の杖が根付いたものであるという伝承や、範頼が植えたとする伝承がある。本樹の根元には、源範頼の墓標と伝えられている層塔(そうとう)や鎌倉期から室町初期に造られた16枚の板碑(いたび)があったが、昭和48年には幹に飲み込まれた1枚を除き板碑を境内の収蔵庫に移設し、蒲ザクラの根系を保全する措置がとられた。
蒲ザクラは、指定当時の幹3本のき損を含め、過去に樹勢の低下がみられたものの、樹勢回復事業の実施や日常管理の充実によって、現在は花付きや新芽の伸長などが安定してみられるようになっている。しかし、指定当時から現存する東側の幹は、木部の腐朽が進行し、支柱で補強し保護を図っている状態である。この幹を長く保全し、蒲ザクラの樹勢をさらに高めるためには、より広い土地の保護を図り、根系を発達させる必要がある。蒲ザクラの南側と西側には、それぞれ東光寺本堂と墓地があり、保護を図る土地の拡大は難しい。一方で、北側は畑地であり、令和元年度に実施した根系調査の結果、この畑地に根が伸びていることが確認され、この土地を整備し保護を図ることで根系の発達を期待できることが明らかになった。このことから、蒲ザクラの保全を図るために、この北側の土地を追加指定するものである。