琵琶湖疏水
びわこそすい
作品概要
琵琶湖疎水は、滋賀県大津市三保ヶ崎の琵琶湖畔から、長等山下を抜けて京都府京都市山科の山〓(*1)をめぐり、蹴上から鴨川左岸に至り、南下して深草・伏見を経、宇治川に注ぐ近代の都市疎水である。
琵琶湖から京都への運河建設は明治時代以前から計画されていたが、明治十四年(一八八一)、京都府知事に任命された北垣国道は、疎水を開き、これを舟運・動力・灌漑等に利用して京都の産業振興を図ろうとした。北垣は同年、疎水線の測量を命じ、続いて勧業諮問会および上京・下京両区連合会に諮り、事業準備を進めた。
大津・鴨川間の疎水および疎水分線の開削事業は、明治十八年一月、政府の起工特許を得、同年六月、田邊朔郎を主任技師として長等山下を抜く第一隧道から工事が着工された。第一隧道は計画線で約二・四キロメートルと、当時日本最長のものであったが、この工事ではわが国初めて竪坑工法が採用され、長等山西麓の藤尾に作業用の第一竪坑(深さ四七メートル)を抜き、ついで通気用の第二竪坑(深さ二〇メートル)を入れ、東西両口からの掘削と併せて工事が進められた。掘削はほとんど入力により、新型のポンプを次々に導入して湧水を克服し、明治二十二年二月に貫通、翌二十三年二月に完成した。第一隧道に並行して第二隧道・第三隧道の掘削も行われ、それぞれ明治二十年十二月、同二十二年三月に完成している。隧道の出入口には、当時の要人たちの揮亳した石額を飾ったおのおの個性ある形態の門が設置された。この間、隧道以外の疎水線工事や閘門の設置工事も進められた。また、蹴上から大文字山の山麓にそい、南禅寺・若王子等東山の山麓を北…