荏柄天神社境内
えがらてんじんしゃけいだい
概要
荏柄天神社は、鎌倉市中央部の東側、源頼朝が開いた幕府跡伝承地の北東約200mの丘陵先端部に位置し、谷を挟さんで約300m西側の対岸丘陵には史跡法華堂跡(源頼朝墓)が隣接している。江戸時代成立の「相州鎌倉荏柄山天満宮略縁起」によれば、長治元年(1104)8月25日に天神が降臨したことに始まるという。天保12年(1841)成立の『新編相模国風土記稿』は、幕府の鬼門鎮護のために祀られたとの社伝を採録している。周囲よりも7m程高い東西約55m、南北約50mの削平地に社殿を設けている。社殿裏は人工的に切り落とした急崖で、社殿の両側は袖状の尾根が張り出しており、鶴岡八幡宮の上宮敷地造成との共通性が見られる。
天神は、東国では八幡神とともに平将門に新皇の位を授ける神として現れ(『将門記』)、武家政権の成立に関わる神であり、弘安4年(1281)には鶴岡八幡宮の境内末社としても祀られた。貞永元年(1232)成立の『御成敗式目』の末尾に付された起請文には、幕府ゆかりの神々の最後に「天満大自在天神」として記されており、誓約に関わる神でもあった。
『吾妻鏡』での初出は建仁2年(1202)9月11日条で、大江広元が荏柄社祭の奉幣使を奉仕したとある。建保元年(1213)2月25日・26日条には、渋川兼守が荏柄社に奉じた詠歌によって、将軍実朝より罪を赦されたとある。寛元2年(1244)7月20日・8月3日条には、密通の被疑者が起請文を進めて参籠して失無しとされたとある。弘長元年(1261)5月8日の「天神坐像胎内銘文」では、荏柄神主平政泰によって朝廷と幕府の鎮護が祈願されている。
当社は鎌倉における詩歌信仰の中心であり、室町時代には鎌倉公方が正月25日に参詣し、千句の催しが行われた(『鎌倉年中行事』)。鎌倉公方足利成氏は宝徳3年(1451)9月23日の御教書で「天下安全祈祷事」を命じており、武家政権の維持に当たり、鶴岡八幡宮と対になって信仰されていた。北条氏康は天文17年(1548)に社殿造営用途のために関を寄進している。豊臣秀吉は天正18年(1590)に鎌倉に入り、鶴岡八幡宮と当社の造営を沙汰し、徳川家康は天正19年に社領19貫文余の朱印状を下して造営を命じている。
元和8年(1622)、徳川秀忠による鶴岡八幡宮造営の際に、若宮旧社殿を当社に移し、幕府の援助で本社・末社の造営が行われている。これ以後、幕府による30年から40年ごとの鶴岡八幡宮修造に併せて当社も修造され、当社は鶴岡八幡宮と並ぶ武門の神として維持されてきた。平成13年の修理の際に鎌倉市教育委員会が建造物調査を行い、当社本殿が正和5年(1316)の造営で、元和8年に当社に移築された旧鶴岡八幡宮若宮本殿であることが確認された。
荏柄天神社は幕府の鬼門鎮護の神社と伝えられており、武家の誓約を保証し、武家政権を守護する神として鶴岡八幡宮とともに信仰され、東国の天神信仰、詩歌信仰の中心でもあった。また、境内地は宗教的な環境を良好に残しており、武家の信仰形態を伝える遺跡として重要である。