周防灘干拓遺跡
高泊開作浜五挺唐樋
名田島新開作南蛮樋
すおうなだかんたくいせき
たかとまりかいさくはまごちょうからひ
なたしましんかいさくなんばんひ
概要
H5-12-11[[名田島]なたじま]新開作南蛮樋.TXT: 干満差が大きく遠浅な海岸、特に湾入部で河口に近く、干潟が発達した場所では、古来より干拓が行われてきた。有明海、八代海、瀬戸内海、伊勢湾、三河湾、東京湾などはその代表的な事例である。瀬戸内海のうち、西端の周防灘に面した地域でも、積極的な干拓(この地方では開作とよぶ)が行われてきた。近世においてそれを実施したのは、主として萩藩(長州藩)であった。
まず高泊開作は、高泊湾を干拓したもので、寛文8年(1668)の汐止めによって完成した。400町歩の規模をもつ、萩領内における最大規模の開作である。萩藩の直営事業として当職(萩藩国家老)毛利就方が発起し、船木代官楊井春勝(三之充)が工事を主管した。汐止め20年後の貞享4年(1687)には、有帆口、高須、平原、鳥帽子岩、櫛山、横土手といった新しい集落が形成されており(厳島竜王社「祭事神役割」)、享保19年(1734)編纂の萩藩地誌『地下上申』では、高泊開作の石高4,449石余とある。
この干拓は規模が大きかったため、排水樋門の数・形態にも年を追っての変遷がある。すなわち当初は有帆川の澪筋(干潟内の河川流路)に石壁土垣で樋門をを設けたが、汐止めの2、3年後(寛文10〜11年)、これを廃し、堤防西端の八幡山麓を掘削してさらに2か所の樋門を設けた。そのうち1つは八幡山東麓の三挺唐樋で、安政4年(1857)山麓の岩盤をさらに切り開いて五挺唐樋に増設し、翌五年には排水口周辺の岩盤を除去して排水効率を高めた。これが現在に残る浜五挺唐樋で、当時はこれを新石唐樋とよんだ(「普請要録」、唐樋とは招き扉形式による樋を指すものであろう)。いま一つの樋門は八幡山南麓の二挺唐樋であるが、太平洋戦争中米軍の爆撃により破壊されている。
名田島は山口市の南部、[[椹野川]ふしのがわ]河口部にあり、寛永3年(1626)に長妻開作、慶安3年(1650)に慶三開作、元禄3年(1690)に元禄開作が築立てられているが、後2者は萩藩(長州藩)によるものである。
この後元禄開作の沖に、同じく萩藩によって築立てられたものが、新開作(安永開作)で、安永3年(1774)9月に築立てられ、同年12月に汐止めされた。100余町の干拓地である。
現存する安永開作の排水樋門は、三挺樋門、四挺樋門、悪水樋門2基と堤防、悪水溜等からなっている。樋門は花崗岩を加工した長方形の石材を積み上げた堅牢な石垣の間に、ロクロによる巻き上げ方式の仕切板を設置したもので、当時唐樋(招き扉)に対し、これを南蛮樋とよんだ。1日4回満干のつど、板を上下に作動し、汐止めと内陸部悪水の排水を行った。この仕事は藩より給付を受ける樋守人が行った。また海水が入ることを完全に遮断することは難しかったようで、ヒラサとよばれる悪水溜から各水田に通じる排水路にも、小さな汐止めの招き扉が設置されている。また山口県文書館に「名田島開作絵図」が残されているが、樋門については四挺樋、南蛮樋、石樋等と記され、ほかに樋守固屋が画かれている。
高泊の浜五挺唐樋、名田島の新開作南蛮樋等は、近世の周防灘における萩藩による開作(干拓)の実態を示す貴重な遺跡であり、また切石積による精緻な構造は、当時の土木技術の到達点をよく示している。よってこれらを史跡に指定しその保存を図るものである。
なお、高泊唐樋は近年隣接地に新樋門が建設され、また名田島南蛮樋は大正12年(1923)、その沖合に山口県営干拓が完成したことにより、樋門として機能することはなくなっている。