神上神社文書
こうのうえじんじゃもんじょ
概要
「神上神社文書」は、山口県周南市大字下上に所在する神上神社に残されていたものである。
享保11年(1726)、大宮司佐伯参大輔が萩藩へ提出した記録(『防長寺社由来』)によると、神上大明神宮は周防十社の一つに数えられ、その創建は古く平安時代前期の承和年間(834~847)と伝え、戦神でもある神日本磐余彦尊(神武天皇)を主祭神とする。享保11年当時、社の氏子については地元の小畑村をはじめ近郊16か村に及び、末社の数は大小合わせて35社を数える大社であった。室町時代から戦国時代にかけて、この付近は大内氏の有力家臣の陶氏が治めており、陶氏の篤い信仰を受けて、社田としては3町歩以上に及ぶ田畠を所有していた。天文18年(1549)の棟札の写があり、時代的には陶隆房(晴賢)が社殿の再建に何らかの関与を行った可能性が高い。江戸時代には徳山毛利家から僅かな社田が認められていたが、維新後の明治7年(1874)、社格が村社と定められ、ついで大正7年(1918)には郷社へと昇格した。
なお、同社家文書によると、古くから神社の世話をする社坊が置かれていたことが明らかで、神仏習合の時代が長く続いた。大正11年(1922)に刊行された『富岡村郷土誌』によると、境内馬場の東側には妙泉庵と清隠庵の2社坊があったとし、現在もその2庵の庵跡を見ることができる。