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兵庫県・赤穂市
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)旧赤穂城庭園
本丸庭園
二之丸庭園赤穂市上仮屋
赤穂城は,正保2年(1645)赤穂に入封した浅野長直によって,慶安元年(1648)から寛文元年(1661)にかけて築城された平城で,往時は城郭南半部が瀬戸内海に面する海城であった。千種川上流から取水された上水は,城内及び城下町の各戸にまで給水され,生活用水にとどまらず,城内各所の池泉へも供給されていた。
本丸庭園は,御殿南面の大池泉,中奥坪庭の小池泉,本丸北西隅の池泉が設けられており,発掘調査後,検出遺構を露出展示した整備により,公開されている。
大池泉は岬・入江・中島・景石などを配し,池底には板石や瓦を幾何学的に敷き並べたり,砂利を敷くなどの化粧が施され,3期程度の造替えの状況が検出されており,その変遷がわかる形で整備されている。床面復元整備建物と一体となって,当時の庭園空間を彷彿とさせる。中奥坪庭の小池泉は,東西に並列する二つの小池で構成され,水はまず西側玉石敷きの池泉を流れて東側舟形淀みへと注ぐ。水は暗渠で大池泉と繋がっている。池泉の護岸周囲は漆喰仕上げに玉石を配した霰こぼし状となる手の込んだ仕上げである。西北隅池泉は,絵図等からは知られていなかったもので,「大石内蔵助」「浅野内匠頭」など人物名を記す木簡が出土した。池泉は,板石貼付護岸で板石敷きの南側方形池と,素掘りで汀線部のみ礫石敷詰めの北側楕円形池からなる。
二之丸庭園は,本丸門前に占地する大石頼母助屋敷南面から二之丸西仕切にまで至る池泉からなる大規模な庭園で,屋敷部が流れの池泉であるのに対し,南西部池泉は水深が深く,船遊びが可能な雄大な規模を有する。赤穂に配流されていた儒者山鹿素行は「船に乗り錦帯池に遊ぶ」と記している。流れと池泉の間には若干の水位差があって区分され,鑑賞的な庭と,回遊的な船遊びを主とするダイナミックな庭園という,内容の異なる庭園が連続して二之丸庭園を構成していた。流れの庭は,池底に玉石あるいは板石を敷き詰め,極めて人工的に化粧された流れを形作り,入江の先端に取り付いた給水口からは上水が注がれてのびやかな様をなしている。大池泉錦帯池は,池自体が大きく開けて二つの中島が配され,橋の遺構も確認されており,自然的風景と船遊びを楽しむ空間となっている。
本庭園は上記のように,本丸二之丸一体となって保存される初めての大名庭園であり,かつ江戸期の庭園利用の一端がわかる極めて貴重なものであり,名勝に指定してその保護を図ろうとするものである。
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)田淵氏庭園赤穂市御崎
製塩業を中心に、赤穂の資産家として財を成した田淵氏の住宅庭園である。赤穂御崎に位置する三崎山の傾斜面に当たり、麓部に位置する居宅の周辺から背後に続く傾斜面の中腹にかけて、石組の池や茶庭から成る庭園が展開する。
表門から主屋及び書院の玄関へと至る導入部には、飛石沿いに露地庭又は坪庭風の庭園が展開し、書院の背面には岩盤を穿って造られた池がある。書院は寛政2年(1790)以前に造営されたもので、書院から池に向かって左側の傾斜面には高さ約4mの滝石組があり、池の右側に架かる石橋を渡ると、飛石づたいに傾斜面の上方へと登ることができる。勾配が緩やかになり飛石が延段に変化した頃、右手に腰掛待合とともに2階建の明遠楼が現れ、さらに飛石に沿って歩を進めれば、左の蹲踞を経て明遠楼階下の寄付へと到着する。
明遠楼は宝暦年間に藩主森忠洪のお成りに合わせて建てられたとされ、もとは赤松滄州が「嘯風楼」と命名したが、明治6年(1873)に伊藤東涯の扁額を入手したことから「明遠楼」と改称したとされる。その意匠は簡素で優美であり、階上から塩田の眺望を意図した作意は傑出している。
また、明遠楼に対面して巡らされた木塀には中潜りが設けられ、その内側には茶室である春隠齋を中心に待合い・蹲踞などから成る内露地が展開する。
このように、山裾の書院と斜面上方の明遠楼や春隠齋などの建築群は茶の湯の儀礼を通じて一つの庭へと溶け合い、それらが持つ芸術上・観賞上の価値は極めて高いことから、名勝に指定した。
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)赤穂城跡赤穂市上仮屋・上仮屋南
国指定文化財(史跡名勝天然記念物)生島樹林赤穂市坂越
天然紀念物調査報告(植物之部)第四輯 五二頁 參照
天然紀念物解説 三六二頁
瀬戸内海ノ陸地ニ接近セル一小島ニシテもちのき、かごのき、ものこく、かくれみの、ひめゆづりは、いぶき、いぬまき、等ノ暖地性常緑潤葉樹林ヲ以テ被レ、對岸ノ陸地ト其ノ植物區系ヲ異ニスルニヨリテ著シ