徳島藩御召鯨船千山丸
とくしまはんおめしくじらせんちやままる
概要
徳島藩御召鯨船千山丸
とくしまはんおめしくじらせんちやままる
歴史資料/書跡・典籍/古文書 / 江戸 / 中国・四国 / 徳島県
徳島県
江戸/1857
1艘
徳島市立徳島城博物館 徳島県徳島市城内1-8
重文指定年月日:19960627
国宝指定年月日:
登録年月日:
徳島市
国宝・重要文化財(美術品)
江戸時代において、船舶の利用の多い諸藩では藩船を所持していたが、特に九州や瀬戸内地域の諸藩は多くの船舶を所有し、航行、造船、修理等のため船方(海上方、船手)の組織をもつていた。徳島藩は藩政時代に森氏一族が船舶と航行を統括していた。森氏は戦国時代以来水軍を掌握しており、その一族は藩内で中老として勢力を有し、海上方として参勤交代の際の海上輸送等の業務を取り仕切った。海上方の根拠地は、徳島城下安宅、椿泊(現阿南市)、淡路洲本、淡路岩屋の四か所にあったが、最も規模が大きかったのは安宅である。ここには主要船舶の格納施設(船倉)があり、船の建造・修理等を行う軍港として安宅御役所が置かれ、船舶に関する業務の一切を支配していた。
千山丸は唯一現存する旧徳島藩船で、鯨船という船型の小型船である。日覆いの部材が残り、帆穴や舵穴もあり、帆走もできるようになっている。櫓は二本残っており、建造当時は六挺立てであったとみられるが、現状では四挺立てである。船体中央部には当初はなかったとみられる生簀状の設備があり、その他の現在では不明の仕口穴等もある。船首の水押両側に龍の浮彫装飾があり、水押先端には唐草模様に猪目のある装飾金物の甲金が冠せられる。両舷側(上棚)に左右対称の軍配団扇、羽団扇など団扇の彩色図が片身代わりの金箔地と群青色地の上に描かれている。また波よけ用の差板が両舷側にあり、沙綾型模様が施されている。船尾の戸立は、御召船であることを示す朱色が塗られ「安政四年巳九月 御船」の文字を刻む。
鯨船はその名のとおり本来捕鯨用の船であり、九州から中国、四国、紀伊半島、房総半島等の地域で使用された。鋭角的な船首形状をもち、波に強い性能とともに、八挺櫓の快速船であるため、江戸時代中期以降は各藩の水軍で、指揮・連絡用、本船への乗船用等多目的に利用された。
徳島藩所属の鯨船は六隻前後とみられるが、千山丸はその中で他の鯨船にはない華麗な装飾が施されており、藩の御用絵師森崎春潮筆「蜂須賀家御船絵巻」に他の主要な藩船とともに「千山御船」として描かれていることから藩主専用の御召船であったことが知られる。
江戸時代には和船の技術により建造された多数の船舶が活躍したが、近代になり洋式船の採用によりそれらは急速に姿を消していった。千山丸は大名が用いた船として現在に残る唯一のものであり、出土品を除けば実際に使用された和船として最も古く、しかも建造年が明らかであり、日本の船舶史上等に貴重である。