和久里壬生狂言
わくりみぶきょうげん
概要
和久里壬生狂言は、福井県小浜【おばま】市和久里地区で、六年目ごとの四月中旬に、同地区の西方寺【せいほうじ】境内に舞台を仮設し、鰐口【わにぐち】と笛の伴奏にのせ、仮面を付けた演技者が、滑稽な内容の芝居を無言で演じるものである。
小浜市和久里地区は、JR小浜駅前の市街地から川を隔てて東方二キロメートルほどにあたる集落である。現在、和久里地区の西方寺境内には「市【いち】の塔【とう】」と呼ばれる石塔がある。この石塔は、かつて小浜市の市街地にあって、石塔の供養にあたって壬生狂言が行われたことが、文化十三年(一八一六)の記録にある。明治六年に石塔が和久里地区に移され、和久里地区の人びとが、十二支の子と午の年に、石塔の供養とともに壬生狂言を行うようになった。
境内に仮設された舞台の構造は、能舞台に準じ、向かって左に橋掛【はしがか】りがあり、中央が舞台で、向かって右に鰐口と笛を演奏する者が座る場所を設け、全体に低い手すりをめぐらしている。舞台の後背面が楽屋にあたる。丸太で組みあげ、庇【ひさし】や床【ゆか】の裾まわりなどを杉や檜の青葉で覆い、庇の正面に「壬生」と書いた額を掲げている。
演目は「狐釣【きつねつ】り」「とろろ滑【すべ】り」「炮烙割【ほうらくわ】り」「座頭【ざとう】の川渡り」「愛宕詣【あたごまい】り」「餓鬼角力【がきずもう】」「腰折【こしお】り」「寺大黒【てらだいこく】」「花盗人【はなぬすびと】」である。平成十四年は、四月十二日・十三日・十四日の三日間、毎日、九演目を順番を入れ替えて演じた。十二日と十四日は、午前一〇時から午前中に三演目を、午後一時半から午後五時ころにかけて残り六演目を公開し、中の十三日は、午前中に石塔の供養があり、午後一時前から九演目を続けて公開した。
これらは地元で単に「壬生」と呼ばれているが、京都市の壬生寺で毎年四月に行われている『壬生狂言』〈重要無形民俗文化財、昭和五十一年指定〉が伝わったものと考えられる。京都の壬生狂言は一四世紀初めに創始され、江戸時代初期に、ほぼ現在の形式に整ったものとされる。鰐口と太鼓、笛の演奏にのせ、仮面を付けた演技者が、無言で身振り手振りで演じるもので、現在、三〇演目が伝承されている。京都と和久里で内容や名称がほぼ同じものは「炮烙割り」「餓鬼角力」など六演目である。「狐釣り」「座頭の川渡り」の二演目は、かつて京都で行われていたが、今は伝承されていない。「腰折り」は京都での公開や伝承が明確ではなく、和久里で能楽の狂言から独自に工夫した可能性がある。和久里壬生狂言は、京都の壬生狂言に比べて、おおらかに素朴に演じられている。
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