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桑折西山城跡

こおりにしやまじょうあと

概要

桑折西山城跡

こおりにしやまじょうあと

城跡 / 東北 / 福島県

福島県

伊達郡桑折町

指定年月日:19900219
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

 伊達郡は戦国大名伊達氏の名字の地である。桑折西山城跡は、この伊達氏の居城跡であり伊達郡桑折町の西方標高193メートルの[[高館山]たかだてやま]を中心に位置している。
 宝暦11年(1761)御巡見使案内記等が西山城について「仙台御先祖常陸(念西)入道居館之由」と記しているように、この城は文治5年(1189)奥州合戦の功により伊達郡を拝領した中村(伊達)念西の居館跡として伝承されてきたものである。応永7年(1400)から9年(1402)にかけて上杉禅秀の攻撃を伊達大膳大夫政宗がしのいだと『余目氏旧記』『鎌倉大草紙』に記される「赤館」もこの西山城を指すと考えられている。(『伊達正統世次考』、『伊達勤王事歴』)。
 大永2年(1522)奥州守護・奥州探題となった伊達稙宗は名実ともに戦国大名として飛躍的な発展を遂げるが、天文5年(1536)には分国法『塵芥集』を発布した。この法は分国1円を対象として出された戦国法であるが、その71条には
「みちのほとりにて見つけ候ひろいものの事、にし山のはしもとにふたをたて……」
とみえており、この西山城とその城下が伊達氏分国の中心であったことをよく示している。
 天文11年(1532)西山城主伊達稙宗は突如嫡子晴宗に捕らえられ、西山城内に幽閉されて、伊達家及び南奥州の諸大名を2分した内紛「天文の乱」が勃発した。6年間にわたる内紛ののち両者は講和に到ったが、稙宗は丸森城に隠居し、晴宗は家督を継ぎ米沢城に移り、そして講和の条件として西山城は破却されている(『伊達家文書』、『伊達正統世次考』)。
 遺構は高館山に本丸、2の丸と数段の腰ぐるわを配し、鞍部を隔てた西方に中館、西館を配し、後2者は直線状の空堀をはさんで相対している。西館には出桝形、中館にはカギ型土塁の遺構がみられる。これらの遺構は「浅野家古城図・陸奥桑折」に描かれた西山城の姿によく合致するものである。また2の丸の南西には戊辰戦争時の砲台場跡もみられる。
 なお伊達稙宗の側室「中館」「下館」と呼ばれる女性がいたことがしられるが、それぞれ城中の中館等に住んだものであろう。城下からこれらに通じる道は現在も「化粧道」の字名で呼ばれている。
 のち延宝7年(1679)、福島に転封された本多忠国が西館に築城を計画したことがあるが、実現はみなかった(『信達二郡案内記』)。
 このように桑折西山城は戦国奥羽の雄伊達氏の本城として著名なものであり、その遺構も良好に保存され、よく戦国時代の大名居城の姿をとどめるものとして、貴重な遺跡である。よってここに史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。

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キーワード

伊達 / 城跡 / 戦国 /

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