平林城跡
ひらばやしじょうあと
概要
S51-12-010[[平林城跡]ひらばやしじようせき].txt: 平林城は、中世、北越後の小泉庄加納を領した色部氏累代の居館及び山城である。
小泉庄は、越後国北端の岩船郡中央部を占める広大な庄園で、平安時代中頃に藤原氏中御門家を領家として立券され、平安時代末頃には、庄域は本庄及び加納から成っていた。鎌倉幕府成立後は、二分され秩父氏の一族が臥牛山城(村上城)を居城として本庄氏を名乗る一方、加納の地頭は平林城に拠って色部条、牛屋条及び日本海上の粟島を領し、やがて色部氏を称した。
色部氏の所領支配は、鎌倉から室町時代を通じて大きな変動もなく続けられ、戦国時代には国人領主として、北越後に重きをなした。上杉氏による越後一国の領国化が進む過程で服属関係を結ぶが、守護代長尾氏による「下剋上」に当たっては、上杉方に付き、その結果、長尾方の中条氏らに攻められ、永正5年(1508)5月に平林城は陥落し、色部氏は長尾方に降服した。長尾氏が主家上杉氏の名跡を襲った後は、色部氏は重臣として遇されきたが、慶長3年(1598)、上杉景勝が会津に転封されるに及んで色部氏も米沢に1万石を与えられ、本領を離れて金山城に入り、平林城は廃城となった。
平林城の遺構は、標高281メートルの要害山(古名は加護山)とその西北麓にみられる。館跡は平野に面する西側を大手とし、大別して3郭に分かれる。西南の最も大きな郭は「岩館」と通称され、東西に長い長方形で、北西隅に虎口を開き、その東には続く1郭があり、さらに東に「殿堀」と呼ばれる空堀がある。昭和49年に新潟県教育委員会が発掘調査を行い、ここに架設された木橋の橋脚を検出したが、この橋を渡った東には「殿屋敷」とよばれる館の最も主要な郭が存在する。館跡の最奥部に当たる。
詰城の置かれた要害山は、館跡から山頂まで1.7キロあり、途中に水場や「物見山」、「のろし山」等の要所がある。山頂は2段に削平され、東側の尾根には2か所の堀切が認められる。
これらの遺構は、極めて良好に保存されており、鎌倉時代の地頭の居館を起源とする城館遺跡として中世史を理解する上に好個の資料を提供するものである。