飛山城跡
とびやまじょうあと
概要
飛山城は宇都宮市の東郊、鬼怒川左岸の台地に築かれた城で、中世に下野国中央部を勢力範囲とした宇都宮氏の家臣、芳賀(清原)氏の居城であった。芳賀氏は高親の時、宇都宮氏2代宗綱に仕え、以後その家臣団にあって、益子(紀)氏とともに紀清両党と並び称され、主家の所領支配及び合戦において重要な役割を果たした。
芳賀氏は、初め大内庄の「京泉屋敷」に居たが、平安時代中ごろに御前城に移り、永仁年間(1293〜98)に高俊が主家の宇都宮城に近い清原村飛山に本城を築城した。以後、天正5年(1577)に舞丘(真岡)城をも築いたが、慶長2年(1597)に宇都宮国綱が豊臣秀吉の怒りに触れて領地没収の処分を受け、芳賀氏の飛山城及び舞丘城もともに廃城となった。
城地は、南北420メートル、東西240メートルを測り、北側と西側は、鬼怒川とその支流が作る急な断崖があって、自然の防備を成し、東側及び南側は、土塁と空堀を二重に築いている。内側空堀は、東南隅で幅約15メートル、深さ約4メートルの規模を持つ傑出した遺構である。北西側を主郭とし、以下第2郭、第3郭が南北に連なり、各郭は、土塁と空堀で区画される。東側の第2郭と第3郭の連接部に虎口を開いていて、ここが大手であり、第3郭の南西隅が搦手であったと考えられる。
芳賀氏は、宇都宮氏の有力家臣として著名であり、宇都宮城や舞丘城がほぼ全面的に市街地化してしまった現在、宇都宮氏を中心とする中世下野国の歴史を理解する上で、飛山城跡の存在は貴重なものといえる。