近江大津宮錦織遺跡
おうみおおつきゅうにしごりいせき
概要
S54-6-040近江大津宮[[錦織]にしごり]遺跡.txt: 近江大津宮は、天智天皇の宮都であり、同天皇6年3月に遷都が実行された。天智天皇7年、中大江皇子は天智天皇としてこの近江大津宮で即位し、同年にはすでに内裏や濱臺が、8年には大蔵、9年には宮門、10年には新臺に漏尅、西小殿、内裏佛殿、内裏西殿、新宮、大炊省などの諸建物が記録に見え、宮都の整備の進展がたどれる。天智天皇10年12月、天皇の崩御があり、続いて起る壬申乱による大友皇子の自縊とともに廃都となる。したがって近江大津宮は6年間という短期間の宮城であり、宮城内の諸施設の建設は記録に見えるものの、その京域については濱臺の名が見えるに過ぎず、関連諸建物の建設や條坊の施行については全く記事を見ないだけに、実質的な整備はなお、十分ではなかったものと考えられている。
この近江大津宮の所在地については、記録・伝承を欠くこともあって、今日、大津市錦織町に比定する説をはじめ南滋賀町、滋賀里町にあてる諸説があり、未だに帰結するところを見ない。
昭和49年以来、滋賀県教育委員会が数次にわたって実施して来た大津市錦織2丁目周辺の発掘調査により、近江大津宮推定地の一つである錦織2丁目御所之内地域の一劃、滋賀宮址顕彰碑の建碑地を中心に天智天皇のころに属する遺物をはじめ、雄大な規模、斉整な配置をもつ諸遺構が発見された。建物は、東西4間以上、南北1間以上の門跡をはじめ、この門から東にのびる回廊を6間まで確認しさらに東に及ぶことが知られている。この回廊の5間目から直角に北へ9間以上のびる柵が連なり、門・回廊・柵で囲まれる範囲は広場となっている。この地域の北方、錦織1丁目字御所大平の地域でも、東西4間以上、南北1間以上の建物が発見され、その西縁から西方へ柵が2間のび、その西端は南北に長く7間以上連なる柵に連なる。建物の南には広場をつくり、その南に、南北の柵から東へ行く5間以上の柵が見られる。
錦織1・2丁目の両所に見られるこれらの遺構は共に建物軸を真北にとり、相互に関連する形で整然と配置され、巨大な柱穴と掘方を伴う柵列のあり方などを通じて考えるならば、一種の官衙の構造であることを示している。遺物の時期が天智天皇のころにあること、遺構の構造が宮の一画を暗示することからすれば、この遺跡は近江大津宮の重要な一部と見ることも可能である。ただ、大津市南滋賀町、滋賀里町等の擬定地については十分な調査がなされていない現在、錦織地区の本遺跡についてとりあえず明確な遺構をもつ地域をとりあげ保存をはかるものである。
H10-12-043[[近江大津宮錦織遺跡]おうみおおつみやにしごりいせき].txt: 近江大津宮は、大津市西部、JR西大津駅の北方約500メートルに位置し、天智6年(667)、天智天皇により飛鳥の地から遷都された都である。しかし、壬申の乱(672年)によって近江朝廷側が敗れ、この宮は廃棄された。この大津宮は、『日本書紀』に「浜台、大蔵、宮門、朝庭、殿、漏刻台、内裏仏殿、内裏西殿、大蔵省第三倉、新宮、大炊」等の宮にかかわる建物等の記載があるが、その実態はほとんど明らかではなかった。昭和49年、滋賀県教育委員会による発掘調査により、当地一帯で宮の中心部分の一部が確認されるようになり、内裏正殿・南門・回廊・塀・倉等が検出された。
指定は、当該地が住宅密集地であるため、保存のできる場所から実施しており、今回は、南門の遺構の所在する地域を追加して指定し、保存を図ろうとするものである。
令和3年 追加指定
近江大津宮は、天智(てんじ)天皇が天智6年(667)に飛鳥から畿外の地である近江に遷都し、天武(てんむ)天皇元年(672)の壬申(じんしん)の乱によって廃絶するまで、およそ5年間の宮跡である。宮殿の所在地は長らく不明であったが、昭和49年、滋賀県教育委員会が錦織地区で実施した発掘調査によって内裏(だいり)南門と考えられる巨大な柱穴を発見し、その後の調査で宮跡の中枢部の遺構が見つかり、昭和54年、内裏南門と考えられる遺構を中心に史跡に指定された。現在までに内裏正殿、回廊、塀、倉、石敷き溝等の遺構を確認しており、順次追加指定を行っている。
今回、条件の整った、内裏南面回廊や内裏正殿東側の地点を追加指定し、保護の万全を図るものである。