長岡宮跡
ながおかきゅうせき
概要
延暦三年十一月、都は平城京から長岡京に遷り、十年後の同十三年十月平安京に移った。
長岡宮の規模は、從来明らかでなかったが、最近門跡が発見され、ついで大極殿および小安殿の跡が判明するに至ったので、この両殿の地を指定しようとするものである。大極殿跡は、地表削平せられ、礎石はその痕跡すら止めていないが、周辺の石敷、凝灰岩の痕跡等により、基壇は東西40.3メートル、南北21.6メートルと認められる。その南面中央とその東西とに三か所の階段の跡があり、北面にも南面の西階に対応する西階の跡がある。中央と東方は、道路、家屋があって未調査ではあるが、それぞれ施設があったと推定される。
小安殿跡は、大極殿跡の北に接し、東西31.55メートル、南北15.25メートルの基壇上に桁行7間、梁行2間の建物があったと認められ、礎石の根石、基壇周辺の石敷が遺存している。基壇の北面には、中央、東西の三階段の跡がある。南面はき損されているが、階段等の施設があったと推定される。き損のあとも少なくはないが、基壇周辺の石敷上からは古瓦が発見され、現存の遺構は、よく両殿の規模をとどめ、長岡宮整備の姿を示すものとして貴重であり、更に長岡宮、長岡京の全貎を考察する上に規準となるものであって、日本歴史上極めて重要な遺跡である。
S54-12-048[[長岡宮跡]ながおかきゅうせき].txt: 長岡宮跡は、昭和39年4月27日史跡指定、その後追加指定をしたが、昭和54年2月、向日市鶏冠井町で市道拡幅工事の際、南北方向の[[築地]ついじ]跡が発見された。発掘調査の結果、築地は既に東半部が削平されてはいたが、残存長82メートルを測り、しかも高さ1メートルに及ぶ築地本体部が遺存していた。この築地は、長岡宮内裏築地回廊西辺部の南延長線上175メートルの位置にあり、長岡宮太政官院を区画する築地の一部であった可能性も考えられ、追加指定して保存を図るものである。
S48-05-142長岡宮跡.txt: 長岡京は桓武天皇のとき延暦3年(784)から、のちの平安京の西南方に造営された都であり、その宮跡は、昭和39年に大極殿院跡の一部、すなわち大極殿跡と小安殿跡が史跡に指定されたが、その後、昭和41年、42年の発掘調査の結果明らかになった内裏廻廊跡のうち、その北西隅部分を昭和48年3月、追加指定をした。
H10-12-044[[長岡宮跡]ながおかきゅうせき].txt: 長岡宮跡は、向日丘陵に位置する。昭和37年、宅地造成に伴う発掘調査により大極殿跡が発見されるに及び、わが国の歴史上きわめて重要な都城のひとつとして昭和48年に史跡に指定され、その後内裏築地回廊、内裏南方の築地、朝堂院西第四堂が追加された。平成9年になって、大極殿前庭部で民間の住宅建設に伴う発掘調査が実施され、これによって宝幢遺構3基が検出された。遺構は、長さ約2.1メートル、幅約1.2メートル、深さ約0.8メートルの柱穴で、大極殿の南端から約30メートル(約100尺)南の位置に、3メートル間隔で計画的に配置された7基のうちの東側3基分に相当すると考えられる。柱穴底面には中央に大柱の設置痕跡が、その左右に脇柱の痕跡が残っていた。平城宮大極殿前庭で検出された同様の遺構は、天皇の即位式に際して建てられたものと考えられているが、即位式の行われなかった長岡宮の宝幢は、朝賀に伴うものとみられる。この調査により、これまで文献資料でしかうかがえなかった朝賀の儀式の一端が明らかとなったため、この地域を含む一帯を史跡に追加指定し、保存の万全を期そうとするものである。