根来寺境内
ねごろじけいだい
概要
和歌山県の最北、大阪府との境界には和泉山脈が横たわっており、根来寺はその一峰、一乗山の南麓と南側の前山と称される独立山塊状の山に挟まれた狭小な平地部と谷筋に立地する。かつての境内地の主要範囲は、東は菩薩峠、西は大門池東側の細尾根、南は東西に衝立のように延びる前山、北は和泉山脈南麓の北山であり、東西・南北とも約2kmに及ぶ。このなかに菩提川・大谷川・蓮華谷川などに形成された谷が入り組んでいる。
根来寺は一乗院大伝法院と号する新義真言宗の本山である。その淵源は大治5年(1130)に覚鑁上人が高野山に大伝法院と密厳院を創建し、みずから大伝法院の座主となったことにはじまる。高野山中における金剛峰寺方と大伝法院方の対立により、正応元年(1288)、頼瑜のとき根来に移転し、新義真言宗が成立した。室町時代には伝法堂院や大塔(国宝)が造営され、戦国時代にかけて大きく発展した。山内には円明寺などの塔頭子院が多数存在し、山内の坊舎2700余りとも伝えられ、大きな勢力をなしていた。この時期に紀北地方や泉南地方の小領主地侍層の子弟が根来の山内に入って、根来衆という僧兵集団となり強力な軍事力を構成した。こうしたなかで、天正13年(1585)3月23日、豊臣秀吉の紀州攻めにあって、その多くが焼亡した。江戸時代に入り和歌山藩主の浅野家が復興し、大伝法堂・大門が再建され今日至る。
旧境内地の発掘調査は昭和51年の広域農道建設を契機に始まった。このとき中世・近世の寺院遺構と焼き討ちに伴う焼土層が確認され、和歌山県と岩出市の教育委員会等により、これまで各所で継続的に行われ、大きな成果が上げられている。それによれば、15世紀から16世紀の段階に遺構の分布が急速に広がり、寺院が拡大していった様子がわかる。子院は斜面を造成して石垣などを配して平坦地をつくり、仏堂や住坊、倉庫・井戸・便所などを備えているのが一般的である。湯屋も確認されている。「根来寺伽藍古絵図」は作成年代が不明であるが、遺跡の状況と合致するところがあり、最盛期の様相を伝えるものと推定される。
発掘調査の出土品には多様なものが豊富にある。食膳具・煮炊具・調理具などの日常用品のほか、仏具、鉄砲玉・槍などの武器、筆・硯などの文具、お茶道具や茶臼などがある。焼き物は備前・瀬戸美濃・瓦器・土師器などの国産品のほか、中国・朝鮮・タイ・ベトナムなどで生産されたものがある。出土品は強く火を受けていたものが多く、焼き討ちの状況を如実に示す。
このように根来寺は中世に一大勢力をなした寺院の在り方をよく示し、多数の遺構を包蔵した往時の広大な境内地の全域が良好な状態で保存されている。また、現在まで法灯が継がれており、建造物や仏像などの多様な文化財が現境内地に残されている。中世における寺院の成立と展開、政治・経済等との関連等を具体的に知ることができる貴重な事例である。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。