大土地神楽
おおどちかぐら
概要
大土地神楽は、「茣蓙舞【ござまい】」や「八乙女【やおとめ】」などの儀式的な舞と「猿田彦【さるたひこ】」や「八戸【やと】」など演劇的な舞を、江戸時代中期から地域の人びとが演じてきたもので、宗教者による神楽では成人が演じる役を、ここでは子どもたちが担当し、その共演者の成人が子どもを導くように演じるなどの特色がある。
大社町【たいしゃまち】は島根半島の最西端に位置し日本海に面している。同町の杵築【きつき】地区は出雲大社を中心にした地域で、出雲大社の門前町また日本海水運による物資集散地として発展してきた。
大土地神楽は、杵築地区の旧大土地村と旧中村の人びとによって伝承され、地元の大土地荒神社【こうじんじゃ】境内にマイザ(舞座)と呼ばれる舞台を仮設し、同社の祭礼日に演じられている。なお舞座は祭礼前日に仮設され、そこで「本ならし」と呼ばれる練習の総仕上げが、祭礼当日と同じように行われる。両日ともに、夕方六時半ころから始まり、翌日の午前三時半ころまで続く。神楽本番の同神社祭礼日は、江戸時代には九月十六日で、明治になっても、しばらくそのまま続いたが、明治三十年ころから旧暦九月十六日に、明治四十年ころ以降は十月二十五日になり、平成十四年から十月二十五日に近い土曜日になっている。
大土地荒神社の社殿は、境内地の東北部分に南向きに建っている。舞座は、社殿から見て右手斜め前方の境内南西部分に、社殿側を正面にして仮設される。正面の横幅が約四・五メートル、奥行約六・三メートルで、約一メートルの高さの床が張られる。社殿側の約四・五メートル四方の三方吹き抜け部分で神楽が舞われる。社殿から遠い方の奥行約一・八メートルは床から一五センチメートルほど高くなっていて囃子場と呼ばれ楽器演奏の場所になる。舞座の後方は、幅五メートルほどの道路が通っていて、その道路の向こう側に、保存会が管理する二階屋があり、通常は神楽の衣裳や楽器を収め、また神楽の練習場所にもなっている。神楽を行うときは、その二階部分が、舞い手が衣裳を着けたりする楽屋になる。楽屋と舞座は、道路をまたいでウキハシ(浮橋)と呼ばれる渡り廊下でつながっている。舞い手や演奏者は、浮橋を渡って楽屋と舞座を行き来する。
神楽は、まず「入申【いりもう】し」と呼ばれる大太鼓、締太鼓、笛の楽器演奏から始まる。舞座後方の囃子場に楽器演奏者が並び、舞い手はその前に並んで演奏中は頭を下げている。次に七座と総称される儀式的な舞が数演目演じられる。七座は「塩清目【しおきよめ】」「悪切【あくぎり】」「神降【かみお】ろし」「茣蓙舞【ござまい】」「八乙女【やおとめ】」「手草【たぐさ】」「幣【へい】の舞【まい】」である。このうち「悪切」「手草」「幣の舞」は小学生の少年が、「八乙女」は小学生の少女が舞う。「茣蓙舞」は四、五歳の幼女が主役で、お多福の面を付けた成人も登場し、舞台上で茣蓙を持った幼女の進む方向を先導し、幼女の所作を誘導するように舞う。儀式的な舞の後に演劇的な舞が始まる。日本神話を題材にした「八千矛【やちほこ】」「山の神」「猿田彦【さるたひこ】」「日本武【やまとたける】」「八戸【やと】」「岩戸【いわと】」などや、能あるいは民間説話や信仰に基づく「田村【たむら】」「五行【ごぎょう】」「大恵比須【おおえびす】」「小【こ】恵比須」などが演じられる。このうち「山の神」では小学生の少年が土地の神に扮して山の神と対決する。「小恵比須」は、小学生が恵比須に扮して魚を釣り上げる所作を見せるものである。出演にふさわしい年回りの子どもが多い年は、その子どもたちにも出演の機会を与えるために、演劇的な舞の間に、子どもによる儀式的な舞が加わることもある。
島根県内各地の神楽は、中世後期に当時の修験者などが中心になって工夫し始まったとされる。その後、中世末期から近世初期にかけて、同県鹿島町の佐太神社で、当時の能を取り入れた神楽が始まった。これは、まず仮面を付けない七座と呼ばれる儀式的な舞があり、次に仮面を付けた能の翁と三番叟が演じられ、その後、同様に仮面を付けて神話などを題材にした演劇的な舞が続くというものである。以後、島根県内各地の神楽は、宗教者によって、この構成に準じて演じられるようになっていった。
本来、この地方の神楽は宗教者によるものであったが、江戸時代中期になると出雲大社近辺の各地では、地域の一般の人びとによる神楽が始まった。これらは素人神楽と呼ばれ、ときには宗教者による神楽を圧迫するほど盛んに行われたため、宗教者側の求めに応じて禁止が命ぜられたが、大土地神楽は、そのときすでに長い歴史をもっていたために、特別に継続が許可されたとされる。