備中松山城跡
びっちゅうまつやまじょうあと
概要
仁治元年秋庭氏の創築にかかると伝えられる。鎌倉時代末より南北朝時代に高橋氏、高氏、秋庭氏これに據り、室町時代に入って秋庭氏に代って上野氏、荘氏、三村氏の居城となり、毛利氏三村氏を攻めてこれを収めた。関ヶ原役後小堀氏代官として鎭したが、元和3年池田氏ここに封ぜられ、爾後水谷氏、安藤氏、石川氏を経て延享元年板倉氏ここに入り、明治維新に至った。
高深地方は、山陽山陰を結ぶ咽喉部に位し、古来重視されたところであるが、松山城はこの地を貫流する高深川の左岸に臨んで高く聳える山上に営まれた山城である。山は臥牛山と称せられ、南北に長く独立状を呈していて、北端に大松山、中央に天神丸、南端に小松山の三峯があり、天神丸は標高487メートルの高さである。
大松山と天神丸とには、それぞれ削平された曲輪があり、中世において恐らく小松山をも合わせて広大な城塞が営まれていたことを示している。小松山は最も平野部に近く、為めに近世に入り、この城についてのみ改築を施し近世的な築城が行われたものと思われる。
南麓の居館跡より急坂を登れば下太鼓櫓、中太鼓櫓の出丸を過ぎて頂上部に近い大手門に達し、三の丸、厩の段、御膳棚等階段状に配列された諸郭を経て二の丸に到る。二の丸の奥に一段高く本丸があり、天守閣と二重櫓が現存する。本丸の背部に後曲輪があって城の背面を守る。背面は急な崖で、谷間に堀切を造って天神丸、大松山の地域と分っている。また、堀切は大松山の盡きるところにもあって、北端を守っている。門塁等すべて石垣を以て堅められ、大手、三の丸より仰ぎ見た石垣は偉観たるを失わない。
この構築の経緯については、なお詳でない点もあるが、盖し近世初期に先づ営まれ、ついで水谷氏により天和年間天守閣を始めとする大修築が行われたのではないかと推定される。
このような高い山頂部に近世に入っても築城されていることは、地勢の然らしむところとはいえ極めて稀な例であって、しかも縄張は地形を利して巧みであり、遺構もよくのこり、城郭史上価値ある遺跡である。