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琴石山心光寺の木像千手観音菩薩坐像 1躯
付 心光寺の保存の千手観音関連文書 6点

こといしやましんこうじのもくぞうせんじゅかんのんぼさつざぞう 1く つけたり しんこうじのほぞんのせんじゅかんのんかんれんもんじょ 6てん

概要

琴石山心光寺の木像千手観音菩薩坐像 1躯
付 心光寺の保存の千手観音関連文書 6点

こといしやましんこうじのもくぞうせんじゅかんのんぼさつざぞう 1く つけたり しんこうじのほぞんのせんじゅかんのんかんれんもんじょ 6てん

木像 / 室町 / 中国・四国

室町時代(15世紀)

 木造(ヒノキ材)、寄木造、玉眼、彩色。
 頭・体幹部は前後二材(矧目は両耳の後方を通る)から彫出し、体部背面に一材を寄せる。膝前材及び両腰奥に三角材を寄せ、裳先を矧ぐ。像内は頭・体を通して平滑に内刳りを施し、三道下で割首のうえ玉眼を嵌入する(内刳り面は全面に黒漆を塗り、像底付近に麻布を貼る)。髻別材。両肩部は前後四材を寄せ、前方材に合掌手と宝鉢手、他の三材に一列ずつ小脇手を取り付ける。合掌手と宝鉢手は肘と手首部を矧ぐか(彩色のため不明)。
 表面の仕上げは全体に布貼り下地を施し、肉身部は金泥、着衣部は金泥の上に截金・盛上彩色で文様を表す。髪は群青(現状黒色)に塗り髪際に緑青を注す。眉・髭・鬢髪の後れ毛を墨で描く。唇を朱に塗る。玉眼の瞳は黒に赤の縁取り。着衣部の文様は以下の通り。
条帛 表地は盛上彩色の唐草文、裏地は盛上彩色の雷文繋。
天衣 表地は截金の笹唐草文。裏地は不明。
裙  表地は截金の麻葉文繋ぎに盛上彩色の団花文、盛上彩色の雲文と散らし点文、截金の雷文繋ぎ。裏地は盛上彩色の唐草文。
 腰布 表地は盛上彩色の唐草文、縁は盛上彩色の点文で括る。裏地は盛上彩色の点文散らし。
 腰帯 表地は截金の唐草文。裏地は不明。
各文様の縁及び界線は細紐二条と太紐一条を一組とする截金又は盛上彩色で表す。

《本体》像高(像底~頂上仏面)44.5cm 肘張(真手)23.9cm 髪際高33.3cm 膝張33.2cm 頂~顎(頂上仏面含)20.0cm 胸奥(左)12.2cm 髪際~顎9.0cm 胸奥(右)12.0cm 面幅 8.5cm 腹奥13.0cm 耳張10.0cm 膝奥22.5cm 面奥11.2cm 裳先奥28.6cm 耳長(左) 7.0cm 膝高(左) 6.5cm 耳長(右) 7.1cm 膝高(右) 6.7cm 《台座》高40.3cm 幅(框)55.5cm 奥(框)50.6cm 《光背》高67.5cm 幅55.2cm

1躯

柳井市指定
指定年月日:20191213

池田正顕

有形文化財(美術工芸品)

(1)浄土宗琴石山心光寺の境内観音堂に安置される。
(2)心光寺に伝来する宝暦8年(1758)10月24日付「覚」などの諸記録によれば、本像は運慶の作と伝え往古より秘仏とされてきたが、諸人結縁のため翌9年2月に開帳され、その後も天保12年(1841)、明治3年1870)、昭和6年(1931)に開帳されたことがわかる。また、本像の台座内に延宝4年(1676)の墨書銘が確認できることから、開帳以前に修理されたことが判明する。
(3)宝暦開帳時に書写された「観音縁起」によれば、本像はかつて真言宗浄林庵の本尊であったが一時退転し、寛永年間(1624~44)に地頭の山田氏が一宇を建て牛馬興生の本尊として寄付したという。また、明治3年(1870)の心光寺住職順教による由緒書には、心光寺のある白潟は応永17年(1410)頃に南都興福寺の寺領となり、本像は村内七ヶ寺の一つ真言宗高向山正福寺の本尊であったが退転し、文明元年(1469)に京都より廓誉然流上人が下向して浄土宗寺院として再興したと記す。一方、元禄・享保年間に知恩院などが編纂した全国浄土宗寺院の沿革誌『蓮門精舎旧詞』には「心光寺 同(知恩院)末 同(周防)州玖珂郡白片村 山号院号不知開山長伝平僧姓氏生国剃髪師移住不知往生天文三年七月七日」とあり、開山は長伝(天文三年=一五三四没)と記す。長伝は心光寺所蔵文書には見えないが、江戸後期の地誌『玖珂郡志』に記す「開基初住長伝」と一致する。
(4)本像の作者は不明であるが、箱を積み重ねたように角張った体躯、強いカーブを描く襞の高い衣文、像内を平滑に内刳りする技法、あるいは髪際高と膝張の法量が一致する規格主義的な用材など、各所に特徴的な彫刻表現が認められる。これらは南北朝時代に室町将軍足利家や臨済宗五山禅林の造像を担った仏師院吉とその子院広が創出した仏像の様式で、以後その流れを汲む仏師が踏襲し、室町期の仏像の典型となった。本像もその流れの中に位置づけることができる優品であるが、院吉・院広の作品と比較すると衣文がやや形式化し、面貌もあくの強さが失われて端正な趣が勝っている。以上から制作時期は室町時代(15世紀)、作者は院派に属する仏師と考えられる。
(5)目視の観察により、頭部(面部)内刳り部に文書が貼り付けられていることが判明した。造像あるいは修理に関するものと考えられる。

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