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年未詳六月十七日付 前田利長書状(長兵へ宛)

ねんみしょうろくがつじゅうななにち まえだとしながしょじょう ちょうべえあて

概要

年未詳六月十七日付 前田利長書状(長兵へ宛)

ねんみしょうろくがつじゅうななにち まえだとしながしょじょう ちょうべえあて

文書・書籍 / 江戸 / 富山県

前田利長  (1562~1614)

まえだとしなが

富山県高岡市

年未詳6月17日

紙本墨書・軸装

本紙:縦33.1cm×横51.3cm
全体:縦63.8cm×横130.5cm

1通

富山県高岡市

資料番号 1-01-33

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

高岡市指定文化財(2019年2月27日指定)

加賀前田家2代当主で高岡開町の祖・前田利長の書状である。宛て先は「長兵へ」、即ち奥村長兵衛(※1)である。長兵衛宛利長書状は現在まで45通(※2)が知られるが、本史料は含まれていない。しかし、富山美術館(現・富山市佐藤記念美術館)の「東山庵コレクション -近世・日本の心をもとめて- 書跡・絵画・漆工・陶磁器」展(1984年11月)に本史料は出品されており、新発見とはいえない。また、当館蔵の利長書状は7通目となる。
 「中田」と冒頭にあり、高岡市南東部の中田の町(宿)かと思われる。『中田町誌』(同誌編纂委員会、1968年)の巻頭図版に掲載され、「中田のはじまりを語る貴重な古文書(※3)」、「中田の御書」として紹介されている(同書に片口家文書(武部家旧蔵)とある)。
 内容は「中田(の市)で布を換金し、進上するように申し伝えよ。皆が年貢を納めるような形で(又は「米を売却し」)、当年中に皆済するように申し遣わせ」となろうか。
年代は未詳だが、宛名が長兵衛(奥村)であり、他の史料との類似性などから利長の晩年、特に高岡在城期(1609~14)とも思われる。遅くとも、その時期の中田町では、布(麻布)や米などが換金できる、「市」があったこと。また当時は各町の年貢収納のような極めて微細で事務的なことでも、利長自らが指示をしていたことも知られる。「布」は中田を含む砺波郡の特産品である麻布(八講布・五郎丸布・川上布などの越中布(※4))のことと思われる。
 本史料は高岡の金丸家(東山庵グループ)のコレクションの旧蔵品である(※5)。それ以前の伝来は、少なくとも武部家→片口家→金丸家(東山庵)と分かる。
 状態は本紙全体にオレ、シミがみられるが良好である。

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【釈文】

中田へ申し候て、ぬの(布)とも
か(換)へ候て、あ(上)け候やうに
申候へく候、いつれも
おさ(納)め候、八木(※米のこと)はら(払)い候て、
とうねん(当年)中かいせい(皆済)
いたし候やうニ申
つかはし候へく候、
     かしく
   六月十七日

(奥上書)
 「〆 長兵へ(奥村) まいる  はひ((前田利長))」

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【注】
※1 奥村 長兵衛 おくむら ちょうべえ (生没年不詳)
利長の奏者(取次役)。(1605年、利長が隠居し富山へ連れてきた家臣書上)「慶長十年富山侍帳」(石川県立図書館(森田文庫)蔵)には知行高700石とあるが、実名等については不詳である。(久保尚文他『勝興寺宝物展』高岡市教育委員会文化財課編、2005)
また、1609年に利長が高岡へ連れてきた家臣の書上にも「七百石 奥村長兵衛」とある(『越中国高岡町図之弁』高岡市立中央図書館蔵)。

※2 大西泰正編「前田利長発給文書目録稿」(同編『前田利家・利長』戎光祥出版、2016年)、及び同「前田利長発給文書目録稿(補遺分)」(同「前田利長論」『金沢城研究』第16号、金沢城調査研究所、2018年3月)による。

※3 別紙、『中田町誌』(中田町、1968、p88-89)によると、中田の歴史は古く、天武天皇の朱鳥元年(686)に貞杉社(元の八幡社)創建伝承(中田の地名由来伝承)がある。また、貞観5年(863)に、正六位移田(いかだ)神(≒移田八幡宮)が従五位の位階を授かり、「平安時代の初頭にすでに相当拓かれ、人家も多かったと思われる」とある。よって、利長晩年期の本史料が「中田のはじまりを語る」とは言い過ぎであろう。しかし、「『近世中田町』のはじまりを語る貴重な古文書」とはいえよう。

※4 越中布 えっちゅうぬの
 越中で織られた麻布。中世末に木綿が入ってくるまでは衣料は麻が普通であったから,布といえば麻布を指した。越中全域で織られていたであろうが,商品としての麻布は砺波郡が主産地であった。前田氏が越中領有直後の1586年(天正14),年貢としての川上布請取状(うけとりじょう)が残っている。川上は砺波郡南部のこと。89年には八講田村宛に年貢米のかわりとしての布請取状があり,慶長期(1596~1615)には隣接の五郎丸村とともに布を加賀藩へ納めている。砺波郡産の布が〈八講布(はっこうぬの)〉と呼ばれたのはこのためである。以後,寛文期(1661~72)にかけて藩は砺波郡産の布を買い占めて専売品とするが,1624年(寛永1)ごろから次第に民間の売買が多くなり,17世紀末の73年(延宝1)には藩の買い上げはなくなる。布の集散地は初め今石動(いまいするぎ)・城端・戸出・高岡であったが,19世紀に入ると福光町がシェアを増してくる。それまでの金沢・京都のルートのすき間を縫って近江商人の直接高値買付ルートができたためである。幕末になると生産量も急激に増え,1864年(文久4)の福光町の扱い高だけでも12万9千疋(びき)に達している。(佐伯安一「越中布」『富山大百科事典[電子版]』2010。2018年6月12日アクセス)

※5 金丸家は高岡市源平町(のち問屋町)で繊維問屋「丸宗」を経営(当館企画展図録『高岡の老舗』2004、p8)。「東山庵」とは金丸明義氏の庵号で、その日本美術コレクションは全国的に著名である。同コレクションは日本を代表する宸翰などの書跡や屏風、蒔絵、陶磁器などの名品からなる(別紙、富山美術館図録『東山庵コレクション 近世・日本の美の心をもとめて』1984、序文/高岡市美術館『安土桃山・江戸の美 ~知られざる日本美術の名品~』2010年、p6-7)。これまで、個別作品が研究書や美術全集に収録され、また全国の展覧会に出品されたりしていた。コレクション展としては、富山美術館「江戸蒔絵と屏風展」1984年9月)、同館「近世・日本の心をもとめて/書跡・絵画・漆工・陶磁器」展(同年11月/本史料出品)、高岡市美術館「安土桃山・江戸の美 ~知られざる日本美術の名品~」展(2010年)が開催されている。しかし最近、古書店やネットオークションなどでも大量に販売されており、流出したものと思われる。

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