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年未詳7月8日付 前田利長書状(九兵へ・左内宛)

ねんみしょうしちがつようかづけ まえだとしながしょじょう くへえ さないあて

概要

年未詳7月8日付 前田利長書状(九兵へ・左内宛)

ねんみしょうしちがつようかづけ まえだとしながしょじょう くへえ さないあて

文書・書籍 / 江戸 / 富山県

前田利長  (1562~1614)

まえだとしなが

富山県高岡市

江戸時代初期

紙本(竪紙)墨書

縦33.7㎝×横51.6㎝

1

富山県高岡市古城1-5

1-01-281-6

高岡市(高岡市立博物館保管)

加賀前田家2代当主で富山県の高岡開町の祖・前田利長書状(越中砺波郡中田町(なかだまち)十村(とむら)・木沢(きざわ)家文書)10通の内(№6)。
大意は「中田よりのぬい(?)、私へ報告無しに献上されたので、受け取らないように伝えよ。七月八日。賽銭は禁止と命ずる。」となろうか。「ぬい」は不明だが布のことであろうか。
宛所の「九兵へ」は脇田九兵衛直賢(1585~1660)、「左内」は大橋左内(生没年未詳)で共に利長の側近。

10通は全て新発見とみられ、多くは現高岡市中田の米(№1・8~10)や布(№2~5)の売買についての利長直筆の消息(しょうそく)(仮名書きの私信)である。特に布(1)(越中布等と総称される麻布)は砺波郡の特産品で、藩は買い占めて専売品とし、高岡をはじめ戸出等に集散され、江戸中期まで藩の経済を支えた重要産品であった。
本史料と同時に寄贈(匿名希望者より)された「砺波郡三(さん)清(きよ)村十村・武部(たけべ)家文書」(2)(1-01-280)の内に含まれるものだが、砺波郡中田町十村・木沢家(3)に伝来したものと考えられるので、今後の活用に資するため別に登録するものである。木沢家伝来と考える理由は、本史料№10(慶長16年発給、14年分年貢米売却代金受取状)の宛所が「中田七郎兵衛」(木沢家初代)となっていることや、本史料同様中田の布・米売買や年貢などについて記した、当館蔵「年未詳六月十七日付 前田利長書状(長兵へ宛)」(高岡市指定文化財)が掲載されている『中田町誌』(同誌編纂委員会、1968年)の巻頭図版に、「武部家旧蔵」とあるからである。
江戸前期まで藩の重要産品であった布売買の実態の一端がうかがえる貴重な史料群である。

【釈文】
端裏「〆 九兵へ・左内 はひ」。
「中田よりのぬい、此方/へあんないなしに/あけ候間、とり候ましき/よし申へく候/かしく、/七月八日/さんせんむやうの/よし申つけ候、」

【注】
※1 布(越中布)
 越中で織られた麻布。中世末に木綿が入ってくるまでは衣料は麻が普通であったから,布といえば麻布を指した。越中全域で織られていたであろうが,商品としての麻布は砺波郡が主産地であった。前田氏が越中領有直後の1586年(天正14),年貢としての川上布請(うけ)取(とり)状が残っている。川上は砺波郡南部のこと。89年には八講田村宛に年貢米のかわりとしての布請取状があり,慶長期(1596~1615)には隣接の五郎丸村とともに布を加賀藩へ納めている。砺波郡産の布が〈八講(はっこう)布(ぬの)〉と呼ばれたのはこのためである。以後,寛文期(1661~72)にかけて藩は砺波郡産の布を買い占めて専売品とするが,1624年(寛永1)ごろから次第に民間の売買が多くなり,17世紀末の73年(延宝1)には藩の買い上げはなくなる。布の集散地は初め今石動・城端・戸出・高岡であったが,19世紀に入ると福光町がシェアを増してくる。それまでの金沢・京都のルートのすき間を縫って近江商人の直接高値買付ルートができたためである。幕末になると生産量も急激に増え,1864年(文久4)の福光町の扱い高だけでも12万9千疋(びき)に達している。          (佐伯安一「越中布」『富山大百科事典』北日本新聞社、2010年)
 「近世麻布研究所」代表の吉田真一郎氏によると、越中布は越後縮(ちぢみ)・奈良晒(ざらし)・高宮布(滋賀県)と並ぶ「四大麻布」の一つ。越中布は経糸(たていと)が大麻、緯糸(よこいと)が苧(ちょ)麻(ま)(カラムシ。繊維は青苧(あおそ))である。大麻を使っていることから織り上げてから晒しており、上質な晒布として知られていた。文化8年(1811)の「布方一件留帳」によると、経糸は五箇山周辺の地苧、緯糸は羽州最上産(山形県)の麻苧を用いており、文政5年(1822)の「砺波郡産物品々書上帳」から、この地苧は大麻であることがわかるという。
(十日町市博物館企画展「四大麻布」2012年)

※2 砺波郡三(さん)清(きよ)村十村・武部家文書
 砺波郡三清村(旧福野町、現南砺市)の十村(数十ヶ村を統括する豪農かつ藩の役人)・武部家に伝わる古文書一括(4,559件6,668点)は金沢市立玉川図書館近世史料館に寄贈され、同館の44番目の特殊文庫「武部文庫」として整理され、2020年3月に目録『特44 武部文庫目録』が刊行された。しかし、2024年12月に当館に寄贈された一括は含まれていなかった。その理由は明確ではないが、金沢に寄贈した武部保人(やすと)氏は郷土史家であり、高岡市鐘紡町の住居に史料を一部移動させ、自らの研究に用いていたからとも考えられる。
(『特44 武部文庫目録』金沢市立玉川図書館近世史料館、2020年。武部保人『最後の加賀藩十村役』2009年)

※3 砺波郡中田町十村・木沢家
 木沢家は中田町(在郷町。公的には「村」)在住の十村。伝承では河内(大阪府)の木沢家の末裔とされる。木沢家は越中・河内・紀伊(和歌山県)・山城(京都府)の守護・畠山家の被官で、越中砺波郡と関係の深いことが東大寺文書や本願寺証如の日記から推測され、室町時代以来の越中土着の士とみられている(研友会誌第9号)。初代七郎兵衛の時、中田が北陸街道(のちの巡見使道)に面する宿駅であったため、加賀3代当主前田利常の御旅屋守を務めた。寛文2年(1662)2代七郎兵衛の時、加賀藩主の往還路が変更になったため、木沢家の御旅屋は新川郡東岩瀬(富山市)へ移築されたが、代わって6年後に十村分役の山廻役に取り立てられた(『越中の十村』)。元禄16年(1703)に3代源六は平十村に昇格し、砺波郡般若組の組才許に任命され、以後、4代源五郎-5代七郎兵衛-6代伊左衛門-7代小四郎-8代源五郎-9代儀四郎といずれも般若組を支配した。10代源五郎の時、加賀藩十村制度の大改正があり、支配する組と組域に変更が行われたが、その時は山見組、天保12年(1841)からは新しい般若組を支配し、11代儀四郎もこれを継承し、明治3年まで務めた(杉木文書)。天保8年(1837)同家に出生した木沢成健は、明治14年第1回全国農談会に出席し、石川県会議員を務めた。
(『富山県姓氏家系大辞典』角川書店、1992)

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