竹石図軸
ちくせきずじく
概要
・中国的解説
趙孟頫(ちょうもうふ)は元時代を代表する文人。字の子昂(すごう)でよく知られる。南宋の王族出身ながらも元朝に仕え、渇筆(かっぴつ)を使った元代文人画を確立した。妻は管道昇(かんどうしょう)。かすれを使って輪郭をとる「飛白石(ひはくせき)」と呼ばれる岩の描き方が特徴で、本作もその画法を継承するものである。
・日本的解説(2枚)
狩野栄信(ながのぶ)(伊川院)が外題、孫の雅信(ただのぶ)(勝川院)が添状、雅信の弟子であった橋本雅邦(はしもとがほう)、山名義海(ぎかい)が極(きわめ)をつけている。文化7年(1810)「伊川院(栄信)外題出来」と記していることからも、狩野家に運び込まれて父が鑑定し、その間に15歳であった子の養信(おさのぶ)が模写を制作したもの考えられるだろう。墨のデリケートな濃淡など、画技が非常にすぐれている。木挽町狩野家には祖父と孫の2回にわたって持ち込まれ、その流れをひく橋本雅邦もまた鑑定の業務を行っているのも興味深い。