相撲絵 3代歌川豊国画《階ヶ嶽龍右衛門》
すもうえ さんだいうたがわとよくにが かいがたけりゅうえもん
概要
相撲絵(※1)(浮世絵)2点である。画工は3代歌川豊国(※2)。
現高岡市戸出出身で幕末に大関(当時の最高位)まで昇った力士・階ヶ嶽龍右衛門(※3)の回し(締め込み)や化粧回し姿ではなく、普段の姿が描かれている。菊紋に竪縞の派手な着物に黒羽織を纏い、両刀を帯びている。
画工の落款の上に改印(※4)は2点あり、左は「衣笠」(衣笠房次郎)と「浜」(浜弥兵衛)が認められる。これは改印分類のうち、第3期(絵草紙掛名主2名が共に捺す時期)で、弘化4年(1847)から嘉永5年(1852)までに出版されたものとわかる(※5)。
右下に「香蝶楼/豊国画」と版元の山口屋の屋号印(トに山口)(※6)がある。
左上に外題「八戸/階ヶ嶽龍右エ門」とあり、階ヶ嶽が八戸藩(※7)のお抱えであった時期(1845~53)のものとわかる。
本図と同じ絵だが、色遣いが多いものが認められる。つまり、本図は当初の刷り物が完売したので、急いで増刷(又はコストカットのため)された後刷りである可能性が高い。もしくは、2パターン作成した可能性も考えられる。更に、階ヶ嶽単独が描かれた相撲絵は少なくとも本図を含め9種確認できる(※8)。したがって階ヶ嶽の錦絵、つまり本人の人気が極めて高かったことがうかがえる。
本図は寄贈者宅に長年伝わったものであるという(入手経路は不明だが、相撲好きであった大叔父が入手した可能性もあるとのことである)。
状態は全体がヤケて褪色が激しい。また、後世、軸装に仕立てられ、周囲が裁断されている可能性がある。
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【注】
※1 相撲絵(すもうえ)
浮世絵版画のうち相撲を主題とした作品。宝暦期 (1751~64) 頃の力士を描いた墨摺絵の相撲絵が最も古く,力士似顔絵をはじめ相撲興行,土俵入りなどが描かれた。すぐれた作例に勝川春英筆『梶浜と陣巻』『横綱谷風』,勝川春好筆『九紋竜,柏戸,鷲ヶ岳』,東洲斎写楽筆『大童山土俵入』,勝川春章筆『谷風,行事木村庄之助,小野川』などがある。
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)
※2 3代歌川豊国(さんだい うたがわとよくに)(1786~1864)
「歌川国貞」で立項。
江戸後期の浮世絵師。初世歌川豊国の門人で、角田(すみだ)氏、俗称を庄蔵といい、1845年(弘化2)剃髪して肖造と改めた。幼くして画才を認められて豊国の門に入り、1802年(享和2)あるいは1807年(文化4)ごろから作品を発表し始めたとみられている。画号は、その初期に一雄斎、五渡亭(ごとてい)を用い、のちに香蝶楼(こうちょうろう)、富望山人(ふぼうさんじん)、富眺(ふちょう)、月波楼(げっぱろう)、北梅戸(ほくばいど)、桃樹園(とうじゅえん)、琴雷舎(きんらいしゃ)、喜翁(きおう)(77歳から使用)など、ほかに数号がある。1844年2世豊国を称するが、正式には初名歌川豊重(1802―?)が2世を襲名しており、その強引さから当時相当の悪評がたったといわれる。以上の理由から現在では便宜上、国貞の豊国を3世と数えている。元治元年12月15日、79歳で没。
その作域は国貞時代より晩年まで実に幅広く、多岐にわたっているが、五渡亭を号した初期にもっとも佳作がみられ、三枚続や大首絵(おおくびえ)風の美人画に優品が多い。香蝶楼国貞の名義では柳亭種彦の合巻『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』(1829~1842)の挿絵が知られる。以降、豊国を称してからは乱作に陥るものの、役者の大首絵などには多少みるべきものがある。しかし、幕末の浮世絵界では最大の勢力を形成し、生涯に描いた作品数も全浮世絵師中、最大数量であったといわれ、その功績もけっして小さくはない。
(永田生慈/鈴木重三編『浮世絵大系10 国貞/国芳/英泉』(1976・集英社)』)
※3 階ヶ嶽龍右衛門(かいがたけ りゅうえもん)(1817~68)
幕末に江戸相撲で活躍した力士。当時の最高位であった大関まで昇った。
文化14年、戸出村(現高岡市戸出新田町)権平(権兵衛/のち中村氏)の長男として生まれた。幼名は岩次郎。小さい頃から相撲を好み、大勝と名乗り田舎相撲の大関であった。天保10年(1839)23歳の時、地方巡業中の江戸相撲の力士鏡岩に見出され、江戸に出て親方・雷(いかずち)権太夫の世話で二所ノ関部屋に入門。大勝力弥と名付けられる。以下、柳澤一夫氏、及び佐伯孝夫氏作成資料により列記する。
天保10年(1839)10月、奥の海力弥に改め東二段目付出で初土俵。
同15年(1844)(柳澤氏は12年とする)、龍ヶ嶽勝之助と改め、二段目幕下相当に昇進。
弘化2年(1845)、階ヶ嶽と改め、八戸藩のお抱えとなる。
同5年(1848)、西前頭七枚目となり入幕する。
嘉永2年(1849)、3月、11月の2場所連続で優勝する。
同4年(1851)、西前頭一枚目。
同6年(1853)、西の小結。2月場所をもって八戸藩を離れる。
安政2年(1855)、西の関脇に昇進。盛岡藩のお抱えとなり、岩見潟丈右衛門と改める。
同3年(1856)、同じ二所ノ関部屋の大関(当時最高位)鏡岩の引退により、第68代西の大関に
昇進する。11月場所より階ヶ嶽に復する(但し名は「龍」から「竜」右衛門とする)。
同4年(1857)、盛岡藩を離れ、名を龍右衛門に復する。11月場所の2日目、巨漢の白真弓との対
戦で両手を負傷し、全休。西の関脇に降格。
同5年(1858)、正月場所で東の関脇となり、熊ヶ谷(くまがたに)と改名。怪我が回復せず全休。
11月場所で東の小結に降格。
同6年(1859)、東の関脇となる。未だ回復せず全休、その後引退する。年寄、熊ヶ谷を名乗る。
後に2代武隈文右衛門に改名する。
幕内通算成績は22場所69勝32負7分4預1無82休。身長6尺2寸(188cm)、体重35貫(140kg)。
文久2年(1862)郷里に帰り、権兵衛の家を再興した。妻は戸出本村・渡辺七郎右衛門の長女・りえ。子が無く戸出村・米屋加納小右衛門の六男を養子とした。
明治元年(1868)10月23日、52歳で死去。法名は善照。墓は現戸出中央墓地にある。
(柳澤一夫氏、佐伯孝夫氏作成資料など)
◎なお当館には階ヶ嶽の明荷(あけに/衣裳・道具入れ)も収蔵している。
※4 改印(あらためいん)
錦絵のなかに絵と共に彫られている、検閲認可を表明する証印のこと。江戸時代の出版取締は画工が描いた彫版直前の下絵(版下絵)を、各出版者の輪番制選出にかかる当番行事(名主)たちが検閲し、認可された場合にその版下に証印を捺して出願者に返還する。出願者はその版下を証印ともども彫版して、作品中にその印を明示するといういわば自主的な検閲代行制度がほぼ寛政初年から実施され、明治8年9月改定の新出版条令が公布されて検閲法が変わるまで続いた。
改印(極印)は様式によって8期に分けられる。さらに最初期の極印の時期(寛政3年~天保13年)は4期に細分化され、合計11期に分類できる。詳しくは別表(石井研堂『錦絵の改印の考証』)を参照。
(鈴木重三「浮世絵版画の製作年代考証資料―改め印を中心として―」(『浮世絵学 付録 4』月報(197●年4月、毎日新聞社)※HP「浮世絵・酒井好古堂」に掲載。)
※5 鈴木重三「浮世絵版画の製作年代考証資料―改め印を中心として―」(『浮世絵学 付録 4』月報(197●年4月、毎日新聞社)※HP「浮世絵・酒井好古堂」に掲載)。『原色 浮世絵大百科事典』第3巻(日本浮世絵協会、大修館書店、1982年)
※6 山口屋藤兵衛(やまぐちや とうべえ)
江戸、東京の地本問屋。錦耕堂、後に春錦堂と号す。初代・藤寿亭松竹(?~1835)は江戸時代後期の戯作(げさく)者。江戸日本橋の書店錦耕堂山口屋の店主。通称は山口屋藤兵衛。初号は千歳亭松武。別号に松亭竹馬,千代松竹。荒川氏。文化から明治期に元浜町九兵衛店、後に馬喰町2丁目北側利右衛門店、久兵衛店、荒川藤兵衛・荒川コマ名義で馬喰町2丁目9番地で営業している。「増補五大力(ごだいりき)」「時鳥相宿噺(ほととぎすあいやどばなし)」ほか多くの作品があるが,自作か代作かは不明。喜多川歌麿、歌川豊国、歌川国貞、歌川国芳、歌川広重、2代目歌川広重、歌川貞秀、月岡芳年、山崎年信、歌川芳春、歌川国利らの錦絵などを出版している。また、自作の石版画も版行している。明治に入ってから編者は荒川藤兵衛・荒川コマの名義で錦絵を刊行している。
(「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」2021年12月23日アクセス。
日本浮世絵協会編『原色浮世絵大百科事典』第3巻 大修館書店、1982年。
吉田漱『浮世絵の基礎知識』雄山閣、1987年。小林忠 大久保純一『浮世絵の鑑賞基礎知識』 至文堂、1994年)
※7 八戸藩(はちのへはん)
江戸時代,陸奥国八戸地方 (青森県) を領有した小藩。寛文4 (1664) 年同国盛岡藩の相続争いから,南部直房が宗家の南部重信から2万石を分与されて立藩。9代信順 (のぶゆき) の代にいたり廃藩置県。譜代,江戸城菊間詰。
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)
※8 9種の階ヶ嶽の相撲絵(2021年12月24日現在)
①本図、②〔下記資料〕3代歌川豊国画、蔦屋吉蔵版、安政元年(1854)、③一光斎(歌川)芳盛画、越後屋長八版、安政3年(1856)、藍地に白二本の化粧回し、④一陽斎(3代歌川)豊国画、藤岡屋慶次郎版、赤字に白丸三つ(八戸藩)の化粧廻し、⑤一陽斎(3代歌川)豊国画、若狭屋与市、八戸藩の化粧回し、⑥香蝶楼(3代歌川)豊国画、版元不明(△内に黒点三つ)、八戸藩の化粧回し、⑦香蝶楼(3代歌川)豊国画、「西ノ方/階ヶ嶽」「相撲繁栄溜り入の図」、伊場屋仙三郎、着物を脱ぐ姿、⑧香蝶楼(3代歌川)豊国画、「階ヶ嶽改/岩見潟丈右衛門」、版元不明(△内に黒点三つ)、八戸藩の化粧回し、⑨3代歌川豊国画、版元印「てりふり丁/ゑひすや」、締込姿で立会いの図
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②3代歌川豊国画《階ヶ嶽龍右衛門》
現高岡市戸出出身で幕末に大関(当時の最高位)まで昇った力士・階ヶ嶽龍右衛門の相撲絵(浮世絵)である。
回し(締め込み)や化粧回し姿ではなく、普段の姿が描かれている。藍と白を基調とした縞模様の派手な衣装を纏い、右手に扇子、左手に手ぬぐいを持ち、両刀を帯びている。
左上に外題「階ヶ嶽龍右エ門」、左下に「彫工庄治」、右下に「豊国画」と版元の蔦屋吉蔵(※1)の屋号印(点付の富士山の下に蔦の葉(※2))がある。そして、「豊国画」の右上に改印の「改」とその右下に右三分の一ほどが隠れ(裁断され)ているうえにカスレが激しいが、辛うじて「寅四」と年月印が判読できる。この「改」と年月印が捺される時期は改印区分の第5期で、嘉永6年(1853)12月から安政4年(1857)までである(※3)。そのうち、寅年は安政元年(1854)であり、その4月の発行と判明する。
改め印の右三分の一ほどが欠損しているなど、後世、軸装に仕立てられ、周囲が裁断されている可能性があるが、状態は良好である。
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【注】
※1 蔦屋吉蔵(つたや きちぞう)
蔦屋吉蔵は江戸時代中期から明治時代にかけて活躍した、江戸南伝馬丁一丁目の版元。紅英堂(紅栄堂とも)と称した蔦屋重三郎の別家の地本錦絵問屋で錦絵等の大手版元。蔦吉と略す。姓は林。享和から明治期に南伝馬町1丁目勝五郎店で営業しており、明治14年(1881)には中橋または南伝馬町1丁目2、明治20年(1887)には南伝馬町1丁目6で営業する。渓斎英泉や歌川広重、歌川国芳、歌川芳虎、歌川広重 (2代目) 、歌川広重 (3代目) らの錦絵などを出版している。
(吉田漱 『浮世絵の基礎知識』雄山閣、1987年 p154/
小林忠 大久保純一 『浮世絵の鑑賞基礎知識』 至文堂、1994年 p210など)
※2 鈴木重三「浮世絵版画の版元印について」(『浮世絵学 付録 8』月報(197●年8月、毎日新聞社)※HP「浮世絵・酒井好古堂」に掲載)。
※3 『原色 浮世絵大百科事典』第3巻(日本浮世絵協会、大修館書店、1982年)の掲載図。