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伏見宮殿下染毫下賜等に付礼状

ふしみのみやでんかせんごうかしなどにつきれいじょう

概要

伏見宮殿下染毫下賜等に付礼状

ふしみのみやでんかせんごうかしなどにつきれいじょう

文書・書籍 / 富山県

光演(大谷カ)

こうえん(おおたにカ)

富山県高岡市

年未詳(近代)1月元旦

紙本墨書・額装

縦17.7㎝×横79.1㎝、全体(額) 32.7㎝×横109.1㎝

1通

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-01-252

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

【現代語訳】
新年のお祝いを謹んで申し上げます。
ご機嫌良くご越年されお慶び申し上げます。
私は無事に年を重ねましたので、恐れながらご放念されていただきたく存じます。
さて、伏見宮殿下のご揮毫の件は大変なご高配に依り、早速ご下賜されることになりましたのは、偏に日頃親密にされておられる賜物だと、一同有り難く存じております。厚くお礼申し上げます。
なお、宮内省方面の件についてもこれまた非常にご尽力いただき、大変恐縮に存じます。
かねて参っておりますことなので、ご困難を拝察し、喜んでおりますが、何分よろしくお願い申し上げます。
なお、こんこんと申し上げます。昨年末は相応の集金がありました。無事越年致しました。何卒ご遠忌までに出来るだけ得るべく整理致しますので、安心できますように一同苦心致しております。
まずはお礼まで。このように申し上げます。
          恐々謹言。
 一月元旦
                光演拝
御兄様へ

―――――――――――――――

差出の「光演」は大谷光演(真宗大谷派第二十三世法主)か。
宛先の「御孟様」の「孟」は「兄弟の最年長」という意味があるので、大谷光演であれば、その兄・光周(浄如)と思われる(「大谷家譜」)。
文中の「御遠忌迄」を宗祖(親鸞)650遠忌とするなら、明治44年(1911)の書簡と考えられる。
伏見宮はその当時の当主は、貞愛(さだなる)親王である。

――――――――――――――――
【釈文】

改暦之御祝詞謹而申上候、
御機嫌克御超歳被
遊候御義奉恐悦候、降而
小西(ママ)無異馬齢を加候
間、乍憚御放念被遊度候、

伏見宮殿下御染毫之
義非常之御高配に依り、
早速御下賜ニ相成候由、
全く平素御親密之
賜物ニ一同難有かり居候、
御厚礼申上候、猶宮内
省方面之義ニ付而も是
亦非常御尽瘁いたゝき
何共恐〆候、兼而参候
事故、御困難恐察
之至ニ喜候へ共、何分
宜敷奉願上候、猶困々
申上候、昨年末は相応
之集金有候、無事越
年仕候、何卒御遠忌迄
ニ可得出来丈整理
仕り御安慮候場合ニ被
為至候様と一同苦心
罷在候事ニ御座候、先は
御礼迄、如此ニ御座候、
       恐々謹言、
 一月元旦
         光演
           拝
御孟様膝下
ーーーーーーーーーーーーーーーー

※大谷光演(一八七五~一九四三)…法号=彰如、俳名=大谷 句仏(オオタニ クブツ)。雅号=春坡、蕪孫、愚峰。
明治八年二月二十七日生まれ。真宗大谷派第二十二世法主光瑩(現如)の二男。十歳で得度。明治三十三年(一九〇〇)まで東京で南条文雄、村上専精、井上円了らについて修学。同年五月仏骨奉迎正使として暹羅(タイ)訪問。三十四年六月真宗大谷派副管長、四十一年(一九〇八)十一月第二十三世法主を継ぎ、管長となった。四十四年(一九一一)宗祖六百五十回遠忌を修したが、朝鮮で鉱山事業に失敗、昭和二年(一九二七)管長を退いた。大正十二年(一九二三)伯爵。書画、俳句をよくし、明治三十一年「ホトトギス」により高浜虚子、河東碧梧桐に選評を乞うた。大正三年(一九一四)以降は雑誌「懸葵」を主宰。句集「夢の跡」「我は我」「句仏句集」などがある。書は杉山三郎に師事、絵画は幸野棋嶺、竹内栖鳳に学んだ。画集「余事画冊」がある。昭和十八年二月六日死去。六十九歳。
〔出典 日外アソシエーツ『20世紀日本人名事典』2004年刊〕

※伏見宮貞愛親王 ふしみのみや-さだなるしんのう(一八五八―一九二三)
明治―大正時代の皇族、軍人。
安政五年四月二十八日生まれ。伏見宮邦家親王の子。明治五年(一八七二)伏見宮家二十一代をつぐ。六年陸軍幼年学校にはいり、八年(一八七五)任官。西南戦争、日清・日露戦争に従軍。三十七年(一九〇四)陸軍大将、翌年軍事参議官。大正四年(一九一五)元帥。大日本農会、在郷軍人会などの総裁も歴任した。大正十二年二月四日死去。六十六歳。幼称は敦宮(たつのみや)。
〔出典 講談社デジタル版「日本人名大辞典+Plus」〕

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