七宝
しっぽう
概要
七宝とは主に金属の素地にガラス質の釉薬を焼き付けて装飾する工芸で、日本では近代以降飛躍的に技術が発展した。花柳は絵画や陶器だけではなく七宝も好んで制作していたが、彼が好んで作ったのは七宝で絵画を表現したもので、無線七宝(七宝絵)とよばれる。銀の細いリボンを輪郭線に用いて文様を作り釉薬を区切る有線七宝が一般的だが、無線七宝は輪郭線をつくらず、異なる色の釉薬を塗り絵画を表現する。幕末から明治にかけて活躍した工芸家の濤川惣助が考案したとされる。
花柳の七宝絵は歌舞伎や新派の舞台、また芝居に馴染の深い東京の下町を題材にしたものが多い。こちらも歌舞伎の「一谷嫩軍記」を題材としている。「一谷嫩軍記」はもともと人形浄瑠璃で、「平家物語」の一の谷の戦いにおける平忠度を討った岡部六弥太、熊谷次郎直実と平敦盛の戦いを脚色したもの。
花柳が描いたのは二段目の「組討の場」の最後で、須磨の浜で熊谷と敦盛の一騎打ちとなるが、熊谷によって敦盛の首は打ち落とされる。熊谷は敦盛とその妻の玉織姫の死骸を馬の背に載せ、手には討ち取った首を持ったまま馬の手綱を引いて立ち去るが、実は熊谷が討ち取ったのは敦盛の身代わりにする我が子であった。海辺で馬を引く熊谷の姿が七宝で表現されている。
花柳は七宝絵を人に贈るために制作することも多かったようで、昭和31(1956)年、明治座で新派の名作「滝の白糸」の白糸を六代目中村歌右衛門が演じた際に、白糸の水芸の場面を描いた七宝絵を歌右衛門に贈っている。こちらは現在早稲田大学演劇博物館に所蔵されている。
他にも昭和38(1963)年5月に明治座で谷崎潤一郎原作「台所太平記」を上演、翌月大阪の新歌舞伎座で同じく谷崎原作の「瘋癲老人日記」を上演したときは、「台所太平記」の七宝絵を谷崎に贈ったという。谷崎は「舞台の衣裳に寄せて」(花柳章太郎『舞台の衣裳』求竜堂 1965)で次のように述べている。
台所太平記のお手伝ひの面々の戯画を、七宝焼の額にして、西山の家までわざわざ夫人と持参されたのには驚いた。場面々々が、細密にこつてりと画かれてゐて、中中面白い味はひが出てゐた。
花柳もこの時のことを随筆に書き残しており、新歌舞伎座での公演を終えるとそのまま大阪に残り、10日以上かけて谷崎に贈った「台所太平記」の七宝絵をはじめ13点を製作したという。舞台を終えて疲弊してもなお作品を制作する花柳の情熱を感じるとともに、歌右衛門や谷崎など知友への気配りを感じる挿話である。