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姫路城

ひめじじょう

主情報

記載物件名
姫路城

解説

詳細解説

姫路城は16世紀末には後に日本を統一した豊臣秀吉により城が築かれた。その後、1600年に徳川幕府の大名として城主となった池田輝政が、1601年から1609年にかけて古城を廃して新たに城を築造しなおした。 姫路城の指定建造物は、以下に述べるように、17世紀初頭の一連の軍事施設として歴史的配置を維持するとともに、芸術性の高い優れた意匠になるものである。  指定建造物の大部分は、池田輝政時代の1601年から1609年にかけての建築であるが、西端の一郭の櫓・土塀は本多忠政が17世紀前期に改修したもので、南端の一郭の東端の門は池田時代以前の1599年の建築である。  その建造物群の中心は、屋根を重ねて高くつくった楼閣状の建物からなる天守群である。その周辺には見張り等の目的の櫓、城の防御のための門や土塀が周到な配慮のもとに配置してあり、市中からも遠望できる美しい全体の姿が構成されている。  城の中心となる天守群は、内郭の北東よりの最も高い位置に建っている。5層の屋根を重ねた大天守と3層の屋根を重ねた東小天守・乾小天守・西小天守の4つの建物を4隅に置き、それぞれを廊下状の櫓でつないで、四角の形に建物を配置する。  天守群の西南は、天守群にいたる主要通路になっている。この天守群に向かって、城の防御のために徐々に高くなるように地形が区画され、区画の境に土塀が建っている。土塀の途中に門を開く。天守群に到達するには、各門を通過せねばならず、防御の万全を期している。とくに天守群に近い門は、土塀の一部を利用した簡略な形で、城を襲撃する外敵の目をあざむくように工夫されている。  天守群の北側に建つ櫓は、戦争時に城にたてこもる際に必要な食糧等の物資の貯蔵のための建物である。  天守群の東側の道は、わざと曲がりくねって急勾配にし、敵を通りにくくした、城の防御を考慮したつくりである。道をのぼりきった位置には、櫓・門・土塀があり、せめのぼってきた外敵を上から攻撃できるようになっている。  天守群の南の一郭、備前丸は、現在は空地になっているが、もとは城主の居館が建っていたところである。これらの建物は、1882年に火災で焼失した。  1868年、幕府が倒れ、新政府によって各地の城郭は破却された。この姫路城も新政府の軍用地(国有地)となり、内郭西端の一郭にあった御殿や外郭の建物(武家屋敷)が除かれ、陸軍師団司令部施設や兵舎が建設された。しかし、天守群等をはじめとする内郭の重要な建造物群は残されることになった。一時は城内の荒廃が著しく、売却の危機もあったが、陸軍大佐であった中村重遠らの努力により保存されることとなった。1919年に制定された史蹟名勝天然記念物保存法により、1929年に史跡に、さらに1929年に制定された国宝保存法により1931年に国宝に指定され、文化財としての保存の道が開かれた。それらは現在の文化財保護法に引き継がれている。  なお、自然災害については、創建以来、地震で被害を受けたことはなく、台風により指定建造物の一部の屋根瓦や壁等に被害を幾度か受けているが、倒壊にいたるような大規模な被害はない。  土塀や櫓には、丸・三角・四角の銃眼が開いており、防御を目的とする城郭建築の特徴をよくあらわすとともに、独特の意匠をつくりだしている。  姫路城の建造物群は、すべて木造、瓦葺で、白色の土塀で統一された優美な外観をもつことから、白鷺城の別名をもち、その名でも広く知られている。