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興国寺城跡

こうこくじじょうあと

概要

興国寺城跡

こうこくじじょうあと

城跡 / 中部 / 静岡県

静岡県

沼津市根古屋・青野

指定年月日:19950317
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

興国寺城は戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)の城であり、彼が自立の第一歩をしるした城として著名な城である。
 北条早雲は、はじめ伊勢新九郎長氏と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹をたよって今川氏に身をよせていたが、義忠急死後の今川家家督争いに今川氏親を助けて功があり、長享2年(1488)駿河国富士郡下方荘12郷を与えられて、興国寺城主となった。
 そののち早雲は延徳3年(1491)堀越公方足利茶々丸を滅ぼし、伊豆の領主となって韮山城に移り、戦国大名への道を歩むことになるが、興国寺城自体は以後も継続して使用され、天文18年(1549)今川義元は城地にあった興国寺を移転して城地を拡大している。永禄11年(1568)以降は駿河に侵入した後北条氏(北条氏邦)の城となり、対武田氏の最前線の拠点(境目の城)として重視された。元亀2年(1571)には後北条氏は武田軍の攻撃を退けているが、この年の後北条・武田の同盟成立(甲相の和)以降は武田方の城となり、武田一門穴山梅雪の持城となった。
 天正10年(1582)武田勝頼の滅亡後は徳川家康の城となり、牧野康成が入城、家康の関東移封後は中村一氏の臣河毛重次が、関ヶ原合戦以後は天野康景が城主となったが、慶長12年(1607)廃城となった。
 城地は愛鷹山山麓にあるが、南方はかつての湿地帯、浮島ヶ原の東端で人馬の踏みいれが困難な要害地であった。また城地の一部を東西に根方街道(根方は愛鷹山麓の意)が通過する。一方、浮島ヶ原南方の海岸砂丘上を旧東海道が通過するが、興国寺城からは南に竹田道が伸びて、根方街道と東海道を結んでおり、交通の要衝でもあった。竹田道は造り道とも、浜方道ともよばれるが、武田道の意であろう。
 城は本丸・二の丸・三の丸からなり、本丸は標高36メートル、土塁内側で東西60メートル、南北50メートルの規模があり、最高部に天守台伝承地と石垣遺構が残るほか、土塁・ほりの遺構が良好に残っている。また本丸東方には石火矢台(石火矢は大砲の意)があった。三の丸南端にも土塁が残っている。これらの遺構は浅野文庫蔵興国寺城絵図や、「駿河雑志」所収興国寺城図の画くとおりに良好に残っているが、ほかにも絵図に記載はないものの、本丸の北側には深い空ぼりを距てて北にくるわが残っている。昭和57年には天守台の発掘調査が行われ、東・西2棟の建物の礎石が検出された(それぞれ約7×8メートル)。
 興国寺城は戦国大名北条早雲の城として、史上名高く、かつ遺構も良好に残っており、戦国時代史を理解する上で不可欠の貴重な遺跡である。よって、本丸、石火矢台、二の丸、北のくるわ(仮称)、および三の丸の一部土塁などの範囲を史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。

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キーワード

/ 本丸 / / 武田

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