要害山
ようがいさん
概要
永正16年(1519)、武田信虎[のぶとら]は石和[いさわ]より移って躑躅ヶ崎[つつじがさき]に館を構え、その背後に一山城を築いた。天正9年(1582)、信玄の子勝頼は新府に移り、翌天正10年(1583)、武田氏が滅んだため、この城は廃城になった。城は相川の扇状地の奥部にあり、開口部に位置する館跡(武田氏館跡として昭和13年5月30日に史跡指定)の北東約2キロの地の山稜の先端にある。中腹以上に顕著な遺構が残っており、海抜約770メートルの山頂部を削平し、土塁をめぐらして本丸としている。本丸に達する通路や枡形・曲輪・堀切・見張台等のほか、要所をかためる石垣もよく残っており、戦国の雄武田氏の城郭として、また館跡とあいまって中世豪族の居住形態の典型としてすぐれている。