江馬氏城館跡
下館跡
高原諏訪城跡
土城跡
寺林城跡
政元城跡
洞城跡
石神城跡
えましじょうかんあと
しもやかたあと
たかはらすわじょうあと
つちじょうあと
てらばやしじょうあと
まさもとじょうあと
ほらじょうあと
いしがみじょうあと
概要
S54-6-037江馬氏城館跡.txt: 江馬氏は北飛騨吉城郡を本拠とした中世豪族で、応安5年(1372)、山科家領の濫妨停止の使節として「山科家文書」に登場するのを史料上の初見とし、以後しばしば文献に登場する。下館はその本拠で大字[[殿]との]にある。その背後東側山稜に本城高原諏訪城があった。北方におかれた支城が土城、西方におかれた支城が寺林城、政元城、南東におかれた支城が洞城、石神城である。
下館の付近には土居、土居の内、御館、御前といった地名(孫字)もあり、昭和49年、土地改良工事に伴い神岡町教育委員会による発掘調査が実施され、建物跡、土塁跡、堀跡、庭園遺構が確認された。『梅花無尽蔵』の作者万里集九は延徳元年(1489)高原郷を訪れ江馬氏の饗応をうけているが、この下館においてであろう。
高原諏訪城は下館背後の山稜上に築かれ、南端の東、南、西を川と急峻な斜面に囲まれた一峰を加工し、土塁、腰曲輪、堀切、竪堀を設けている。この山を城山と呼び主体部と考えられているが、北方の稜線上にも平場や大堀切などの遺構がある。
土城は土の牛首城山にあり、別称の鬼ヶ城が示すように高原川と跡津川の合流点の岩山に築かれている。頂部に2段の平場がある。高原郷の主要道は越中東街道であるが、もう1本東に山中唐尾峠を経て越中と信州松本平を結ぶ鎌倉街道が重要な交通路であった。高原郷と鎌倉街道を結ぶ道には、まず土より分岐して大多和峠を経て有峰に到る道がある。土城はその分岐に置かれ北方に備えるとともに大多和・有峰を経て属城越中中地山城との連絡にあてられた。
寺林城、政元城も越中東街道沿いにある。寺林城は玄蕃山と呼ばれる半独立峰頂部にあり、2段の平場が残っている。政元城には円形の平場と腰曲輪がみられる。越中東街道はこの地において神原峠を越える本道と、数河峠をこえる脇道とに分かれるが、政元城はその分岐点の押さえである。
高原郷と鎌倉街道を結ぶ道には前記大多和越の他南方上宝に出る道があった。この道は下館そのものの中を通過する。道に沿って関屋という屋号の家もある。この古道に沿って築かれたのが洞城、石神城である。両城とも山頂を利用して2段程の平場を設けた簡単な構造ではあるが、相互の展望に留意して占地がなされている。
永禄7年(1563)以降江馬輝盛は武田信玄に属し、天正4年(1576)以降は上杉謙信の軍門に下るが、天正10年(1582)輝盛は三木自綱に敗れ戦死、江馬氏は滅亡し高原諏訪城も落城した。
江馬氏の城館は下館の庭園跡を代表する遺構の良好な保存状況に加えて中世の城館の相互の関連を示すものとしても貴重であり、一括して指定し保存を図るものである。