赤木城跡及び田平子峠刑場跡
あかぎじょうあとおよびたびらことうげけいじょうあと
概要
H1-6-04赤木城跡及び田平子峠刑場跡.TXT: 赤木城は豊臣秀長の配下であった藤堂高虎が天正十六年(一五八八)に築いた城であり、また、田平子峠は藤堂高虎らの新領主に抵抗した旧来の北山の国人士豪らが処刑された刑場の跡である。
天正十三年、豊臣秀長が大和、紀伊及び和泉と伊賀の一部を領すると、高虎は紀伊に入るが、北山入(北山郷攻略)にあたり、北山の在地豪族らの討伐、懐柔が行われた。この時高虎の謀略によって、北山の面々が赤木村境の田平子峠にて梟首されたという記録があるが、この北山入のおり、高虎によって築かれたのが赤木城である。
城跡は標高二三八メートル、比高約三〇メートルの丘陵上にあって、北方と西方を大きな堀で断ち切り、高さ三メートルの石垣を周囲にもつ本丸を中心に、南東の支尾根には石垣をもつ二つのくるわ、南西に同じく石垣をもつくるわを配している。石垣は野面積であるが、隅には算木積を用い、本丸には北と南西の二か所に張り出しを設けて防御上の工夫をこらし、南東には桝形の虎口(入口)が設けられている。規模はとりわけ大きいとはいえないものの、近世城郭の萌芽ともいうべき城郭機能が兼ね備えられており、よく天正期城郭の特色を有しているといえよう。
こののち藤堂高虎の伊予移封後、紀伊には秀長重臣桑山氏、ついで関ヶ原以降は浅野幸長が入る。慶長十九年(一六一四)、大坂冬の陣がおこると、この北山においても大坂方に呼応して旧来の勢力による北山一揆がおきるが、その一揆も浅野幸長によって再び鎮圧された。その折にもこの赤木城が使用されたと考えられる。
この二度にわたる北山入、北山一揆の鎮圧は「行ったら戻らぬ赤木の城へ、見捨てどころは田平子じゃ」と長く村人が語り伝えるところとなる。田平子峠は『紀伊続風土記』にも記されるように「獄門場跡」として記憶され、地蔵が祀られるほか後世の供養碑が建立されている。
なお藤堂高虎は徳川氏城郭の縄張りを多く担った人物として知られている。彼が作ったとされる城は居城普請として宇和島城(国史跡)、今治城、伊賀上野城(国史跡)、安濃津城、助役普請として和歌山城(国史跡)、聚楽第、膳所城、伏見城、江戸城(国特別史跡)、篠山城(国史跡)、亀山城、大坂城(国特別史跡)、二条城(国史跡)等多数に及んでいるが、築城の名手とされた彼が初期に作った城としても赤木城は注目される。
赤木城跡及び田平子峠刑場跡は豊臣、徳川政権が確立され、その支配力が全国に浸透していく政治過程を示す遺跡である。とりわけ赤木城跡は天正期の遺構を良好に残し、近世城郭の原形を示す城跡としても、豊臣、徳川両政権における重鎮であった藤堂高虎の事績を示す城としても貴重である。また田平子峠刑場跡はこうした新領主に対し、在地の旧来勢力が抵抗をくり返しながらも鎮圧されていく過程を示す重要な遺跡である。よってこれらを史跡に指定してその保存を図ろうとするものである。