黒井城跡
くろいじょうあと
概要
黒井城跡は中世末期、西丹波の盟主であった赤井(荻野)氏の居城跡で、織田信長の丹波攻略の際には2度にわたって明智光秀の攻撃を受けた城である。山頂のくるわ群は堅固な石垣で護られ、三方に伸びる山稜上に城砦群を配し全山を要塞化したこの城の構えは、光秀の攻撃を長期にわたってしのいだその歴史にふさわしいものであり、戦国期の城郭の代表的なものといえる。
黒井城の歴史は赤松貞範(則村次男)が丹波国氷上郡春日部荘を与えられたことから始まるといわれている。赤松氏の後は早くから赤松氏と対立していた荻野氏が城主となり荻野和泉守、荻野伊与守秋清らが在城したが、天文23年(1554)一族の赤井(荻野)直正が秋清(赤井家譜では直正の叔父にあたるとう)を倒して黒井城に入城し、悪右衛門を称した。直正は赤井・荻野一族を統率し、永禄8年(1565)には丹波守護代の内藤宗勝を倒し、氷上郡のほか天田郡、[[何鹿]いかるが]郡(以上、丹波奥三郡)と船井郡の一部を制し、丹後、但馬にも進出した。この時期に今日の遺構にみるような黒井城が完成したものであろう。永禄11年(1568)頃には前関白近衛前久の黒井城〓(*1)留もあり、『赤井家譜』等は前久息女が直正に嫁したと伝えている。
元亀元年(1570)には織田信長より奥三郡の安〓(*2)を受けたにもかかわらず、天正初年以降、逆に赤井直正は黒井城を本拠として反織田信長勢力の一翼を担い、武田勝頼、石山本願寺、毛利(吉川元春)らと意を通じた。天正3年(1575)に至り、織田信長は明智光秀に丹波攻略を命じる。この時、丹波の諸将は信長方に降り、10月直正は但馬竹田…