八上城跡
やかみじょうあと
概要
八上城跡は、兵庫県の中央東端部に位置し、史跡篠山城跡の南東約3.5kmの丘陵に占地する奥丹波地方最大の中世山城跡である。丹波地方を代表する有力国人の波多野氏の本拠地で、織田信長旗下の明智光秀による丹波攻略の際に、最大の攻防戦が行われた城郭として著名である。
八上城跡北麓の八上地区は、東西に山陰道が通る街道筋で、中世における丹波国多紀郡の中心地であった。石見国の土豪であった波多野清秀は、15世紀後半代に応仁の乱の戦功によって多紀郡小守護代に任ぜられ、八上地区から南側の谷部に入り込んだ奥谷中央部の蕪谷に奥谷城を築城して本拠地とした。その後、波多野氏は管領細川氏の有力内衆として勢力を拡張し、中央政権内での地歩を固めた。天文7年(1538)には三好政長とともに守護代の内藤氏を攻略して奥丹波地方を実効支配した。三好長慶や松永久秀と対立して一時八上城を奪われたが、永禄9年(1566)に奪還した。
同11年に織田信長が上洛すると、波多野氏は服従の姿勢を示したが後に毛利氏に与し、天正4年(1576)には明智光秀を裏切り敗走させた。八上城は同6年の第二次丹波攻略で光秀軍に包囲され、1年にわたる籠城戦の末に落城して波多野氏は滅亡した。その後、多紀郡は光秀、前田玄以等が支配し、慶長7年(1602)には前田茂勝が徳川家康から八上藩5万石に封じられた。同13年に茂勝は改易となり、家康庶子の松平康重が入封した。康重は同14年に幕命による天下普請で新城を築城し、同年末に篠山城に入城して八上城は廃城となった。
篠山市教育委員会は平成13年度、14年度に八上城跡の縄張り調査、文献・地名・地割調査を実施した。八上城跡は、篠山盆地の中央南部、篠山川左岸の標高約460mの高城山と標高約340mの法光寺山を中心に築城された。標高差は240mから120mを測り、東西約3km、南北約1.4kmの広大な城域を有する。本城が築かれた高城山は、丹波富士の別名を持つ秀麗な山容を誇る。
高城山では東西約1.4km、南北約1.3kmの範囲に10箇所ほどの郭群が展開する。高城山を中心とする八上城は、史料上では大永6年(1526)に「矢上城」として初出する(『足利李世記』『細川両家記』)。北東部の尾根筋は防御施設の配置が粗放であるが、主郭部分は平場、土塁、空堀が集中配置され、水の手を守る南西部の防備が最も固い。また、高城山から南西側に下る尾根の先端部には奥谷城(蕪丸)跡が位置する。尾根を大堀切で切断して東西南北約200mの範囲に郭と竪堀を配置している。16世紀に高城山が本城として整備されると、登城口を守る出城として改変整備された。法光寺城跡は東西南北約1.4kmの範囲に6箇所の郭群が展開する。史料上では永禄2年(1559)に「八上法光寺山」として初出する(波多野家文書)。三好・松永勢による八上城攻めに先んじて、防備強化のための出城として築城されたと推定される。
八上城跡は、戦国時代に多紀郡を中心に奥丹波地方一帯を支配し、管領細川氏の有力内衆として活躍した波多野氏の本拠地の山城跡であり、明智光秀による丹波攻略の主戦場としても著名である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。