柏木城跡
かしわぎじょうあと
概要
柏木城跡は、会津(あいづ)盆地(ぼんち)北縁(ほくえん)を望む標高512mの丘陵上(きゅうりょうじょう)に立地する、戦国(せんごく)時代(じだい)に蘆(あし)名(な)氏(し)によって築かれた城跡(しろあと)である。城跡の北側には奥州(おうしゅう)会津(あいづ)と羽州(うしゅう)長井(ながい)・米沢(よねざわ)を結ぶ米沢(よねざわ)街道(かいどう)が走る。城が所在する大塩(おおしお)は米沢に本拠(ほんきょ)を置く伊達氏による会津(あいづ)侵攻(しんこう)に対する防衛(ぼうえい)拠点(きょてん)であったことが知られ、天(てん)正(しょう)13年(1585)の伊達(だて)政宗(まさむね)の会津侵攻の際、蘆名軍が立て籠もったこと、天正17年(1589)には大塩の城の動向などが「政宗記(まさむねき)」に見える。
柏木城跡は東西500m、南北450mの広大な城域(じょういき)を有する。その縄張(なわば)りの特徴は、米沢街道を強く意識していることであり、米沢街道に面する城の北側(きたがわ)斜面(しゃめん)には、大規模な曲(くる)輪群(わぐん)を配し、また米沢街道から分岐(ぶんき)し城の南側を通過する道路を、堀(ほり)を伴う石積(いしづみ)の土塁(どるい)によって200mにわたって遮断(しゃだん)している。このことは、この城が米沢街道を南下する伊達軍への備えとして機能していたことをうかがわせる。一方、石積を多用することや、複雑な形状の虎口(こぐち)を有するなど、戦国期の最新の技術を採用していることも確認されている。蘆名氏、伊達氏といった戦国期における南東(みなみとう)北(ほく)の二大勢力の抗争(こうそう)を具体的に示す城跡として重要であるだけでなく、当時の築城(ちくじょう)技術(ぎじゅつ)や防(ぼう)御思想(ぎょしそう)などを知る上で重要である。