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美濃金山城跡

みのかねやまじょうあと

概要

美濃金山城跡

みのかねやまじょうあと

城跡 / 安土・桃山 / 室町 / 中部 / 岐阜県

岐阜県

戦国,安土桃山

岐阜県可児市

指定年月日:20131017
管理団体名:可児市(平26・3・24)

史跡名勝天然記念物

 美濃金山城跡は木曽川中流域の左岸、可児市兼山の古城山にある戦国期から織豊期にかけて営まれた山城である。江戸期の伝承によれば、天文6年(1537)美濃国守護代の一族である斎藤氏が築き、烏峰城と呼ばれたが、永禄8年(1565)織田信長の家臣森可成が城主となって金山城と名称を改めたとされる。嫡子長可、忠政と森氏が35年間にわたって城主をつとめ、織豊政権下の東美濃支配の拠点となった山城である。金山には川湊があり、木曽川舟運に大きな役割を果たしたと考えられている。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦い直前に忠政は信濃川中島に転封され、金山城は犬山城主石川貞清が兼帯して支配するところとなり、慶長6年(1601)犬山城主小笠原吉次によって城が破城されたとされる。金山(明暦2年〈1656〉に兼山と改称)は幕府の代官支配を経て、元和元年(1615)尾張藩領となり城跡一帯は留山となった。明治以降官林(国有林)となり、昭和28年に兼山町(現、可児市)に払い下げられている。
 主郭から出丸までの山上部は岐阜県史跡に指定され保護されてきた。また、城跡の南側山麓部は公園として整備されている。金山城の諸施設が犬山城に移築されたという「金山越」の伝承(津田房勝『正事記』等)から、戦前から主郭部の建物跡に関心が向けられ、主郭部の測量調査や発掘調査等が行われてきたが、可児市教育委員会は平成18年度より城跡全体の測量と確認調査を実施し、全体構造等の究明に努めてきた。金山城跡は山上の最高所(標高276メートル)に主郭を設け、その東、南、西に続く尾根筋に、それぞれ数メートルの段差をもって曲輪群を配置している。北側にも小規模な曲輪があり、南西端に出丸と呼ばれる曲輪(西Ⅲ郭)がある。南Ⅰ郭と主郭北東部に桝形虎口が残る。南東端に左近屋敷と伝承されている東Ⅵ郭がある。城跡は以上の山上部の曲輪と北麓部にある米蔵跡と伝承される曲輪から構成され、伝米蔵跡には高さ5.3メートル程の石垣が積まれている。主郭との比高差は約160メートルである。発掘調査の結果、4棟の礎石建物が検出された主郭をはじめ、各曲輪に川原石を用いた礎石建物が存在することが明らかとなった。出土遺物には土師器(かわらけ)、瀬戸美濃産陶器(碗、皿、鉢等)、中国製磁器、瓦等があり、最盛期と考えられる16世紀後半には10の曲輪に礎石建物が存在していた。主郭等では建替えがあったことも確認されている。出土した瓦に桐紋の軒平瓦があり、道具瓦や飾瓦の存在からも主郭には瓦葺の建物が存在したことが推定される。主郭の全周を石垣が囲むが、各曲輪の石垣は部分的である。破城以前3メートルにも及ぶ石垣が構築されていたと考えられる場所があり、大がかりな普請が想定される。岩盤を加工した箇所等、曲輪の造成上の必要性とともに、視覚的な効果も意図していたと考えられる。金山城跡は江戸時代において留山として後世の改変があまり加わらず、破城の様子をよくとどめている点でも価値が高い。瓦の導入や石垣の構築等織豊系城郭の特徴をよく示している。
 このように美濃金山城跡は石垣や瓦を使用した織豊系城郭の特徴をよくとどめており、元和以前の慶長期の破城の状況とともに、山城の変遷を考えるうえで重要な遺跡である。戦国期から織豊期にかけての動乱と統一の過程が東美濃地域においてどのように展開したのか、東美濃の政治状況を知るうえで重要であることから、史跡に指定し、保護の万全を図るものである。

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