Shihombokugatansaisansuizu
紙本墨画淡彩山水図〈/拙宗筆〉
Details
拙宗等揚は、『本朝画史』(延宝六年序)に初めて記録される画家である。狩野探幽が古画を縮模した「探幽縮図」にも拙宗等揚の画が含まれており、江戸時代初期にはその存在が認められていたことがわかる。
拙宗筆とされる作品は一〇点ほど知られているが、それらに押された「拙宗」の印には方印と鼎印の二種があり、「等揚」方印も字形によって甲、乙の二種に分けられる。個々の作品についてみると、①「拙宗」方印のみのもの、②「拙宗」鼎印のみのもの、③「拙宗」鼎印と甲種の「等揚」方印を有するもの、④花押風落款に乙種の「等揚」方印を押すもの、などに区別されるが、藤井家と正木美術館の山水図は、同じ「拙宗」朱文重郭方印を有し、かつ、ともに雪舟(一四二〇-一五〇六?)や山口の地と関係の深い禅僧が賛をしている点で、最も注目される。
藤井家本の賛者龍崗真圭は「雪舟二字説」の作者で、防府の洞春寺には塑像の頂相が伝わる。正木美術館の賛者以参周省は大内教弘の子息。周防の保寿寺の僧で、雪舟と長く交わりを結んでいる。同じく春湖清鑑は周防の霊昌寺に住した僧で、大内氏の使として朝鮮にも渡っている。寿棟については文明十七年(一四八五)西堂の地位にあった僧であること以外はあまり明らかでないが、やはり周防に縁のあった僧と考えられる。このように、両図によって、拙宗の活躍時期と活動の地域が示唆される。また、雪舟が大内氏の援助を受け、周防で活躍したのは周知のことであり、少なくとも拙宗と雪舟が相近い関係にあることが了解される。
龍崗真圭の「雪舟二字説」によれば、雪舟が雪舟と号するようになったのは、四…