七尾瓦窯跡
ななおかわらがまあと
概要
S54-12-032[[七尾瓦窯跡]ななおがようあと].txt: 七尾瓦窯跡は、吹田市の中央東部に位置する。この地は平安宮に屋瓦を供給した吉志部瓦窯跡の北東200メートルの所にあり、吉志部瓦窯跡群の所在する丘陵延長線上の残丘先端にあたる。現地は標高17メートルで、比高差約2メートルの残丘となっており、瓦窯は南西から北東へのびる丘陵の北西斜面に並列して構築されている。昭和54年7月の発掘調査によって、7基の瓦窯跡の存在が確認された。このうち、北西斜面に残る主軸を東西方向にとる6基はすべて[[登窯]のぼりがま]であり、丘陵東端部東斜面に築かれた南北方向主軸の1基は平窯である。
調査時に完掘された瓦窯跡は3基であり、2基は登窯(2・3号窯)、1基は平窯(7号窯)である。2・3号窯はいずれもいわゆる有段有階登窯で、遺構の残存度も良好であり、特に3号窯は天井の一部を含めて窯体が完存しており、窯の構造の詳細を知ることができた。それによると、窯跡は全長5.4メートル、最大幅1.75メートルの規模で、7段の階段を有する焼成部・燃焼部とも良好に残存し、側壁には大型の日干し煉瓦が用いられていた。また、焼成部末端の段階部に、軒平瓦が窯詰の状態で検出されたのは稀な例であろう。なお、平窯の7号窯は大半が破壊されていた。
屋瓦類は多量に検出されたが、軒丸瓦・軒平瓦の型式は線鋸歯文珠文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦(6303型式)と、珠文縁均整唐草文軒平瓦(6664B型式)各1種のみで、セットして使用されるものである。
この組み合わせと同笵の瓦は、聖武朝難波宮の内裏及びその周辺部で数多く検出され、大安殿等内裏関係建物に葺かれていた可能性が強い。また、本瓦窯跡出土の丸瓦や平瓦と形状・胎土・焼成など全く同種のものが、難波宮出土のものに多く認められる。したがって、本瓦窯跡が聖武朝難波宮に屋瓦を供給していたことは確実であり、官窯としての性格を有していたと考えられる。本瓦窯跡は、聖武朝難波宮造営の屋瓦供給窯としてこれまでに知られている唯一の例であり、昭和54年10月、7基の窯跡を含めた丘陵一帯を指定するものである。