鴻臚館跡
附女原瓦窯跡
こうろかんあと
つけたりみょうばるかわらがまあと
概要
鴻臚館跡は、福岡市の中央部、史跡福岡城跡地内中央東部の平和台野球場跡を中心とする地域に所在する、古代において外国からの賓客をもてなすための客館施設の遺跡である。鴻臚館は、平安時代に平安京・難波・筑紫の3箇所に設置された宿泊・饗応施設で、筑紫の施設は、7世紀末から奈良時代にかけて大宰府において客館として使われていた筑紫館にさかのぼるといわれる。
筑紫の鴻臚館の所在地については、博多地域にあったとされていたが、大正15年(1926)中山平次郎が福岡城説を提起して以来、福岡城内説が支持されてきた。しかし、当地域は近世の福岡城、近代の陸軍関連施設建設で破壊を受け、遺構は残っていないものと考えられていた。
昭和62年(1987)12月、平和台野球場外野席の改修工事に伴う発掘調査により、鴻臚館跡の存在を想定させる布掘りの柱穴列の検出と大量の輸入陶磁器類が出土した。そのため、福岡市教育委員会により、昭和63年度から鴻臚館跡の全容解明のための調査が実施された。調査は、福岡城跡全域で実施され、その結果、鴻臚館跡の中心施設は野球場と南側のテニスコート一帯に広がることが確認された。
遺構は、出土土器等から大きく5期の変遷を経ていることが確認されている。第1期は7世紀後半代の遺構で、南側では掘立柱建物跡2棟を含む遺構が検出され、北側では掘立柱建物跡とそれを囲む柱穴列及び石垣を検出した。第2期は8世紀前半代の遺構で南側では、方形に区画され、門を伴い、柱穴列をもつ布掘り遺構と、その南西側に所在する便所遺構3基が、また大規模な濠を挟んで北側には南側と同様に方形に区画され東側に門を伴う柱穴列をもつ布掘り遺構と濠に面した大規模な石垣が検出されている。第3期の遺構は8世紀後半から9世紀前半にかけてであり、礎石建物跡が数棟と土坑が確認されている。第4期は9世紀後半から10世紀前半、第5期は10世紀後半から11世紀前半であるが、ともに建物遺構等は削平等により確認されていない。遺物は、多量の瓦類のほか、中国越州窯系青磁や長沙窯系青磁、イスラム陶器、新羅陶器などの輸入陶磁器類、挂甲小札、鏃形金製品、砂金などが出土した。また、南側第2期の便所遺構から多数の木簡が出土した。大部分は付札で「肥後国天草郡志記里」、「京都郡庸米六斗」など大宰府管内の地名が書かれているが、1点だけ「讃岐国三木郡」のものがある。多くは、米、魚、鹿など食料に関したもので、客館での饗応に関わるものと思われる。なお、11世紀中頃の焼土層が確認され、白磁碗が出土していることから、鴻臚館の終焉が11世紀中頃であることが発掘調査から確認されている。
このように、3期にわたる建物遺構の変遷、布掘り遺構を伴う官衙的建物群や史料に記載されている「鴻臚北館」の存在を想定させる遺構の検出、濃密な交流の実態を示す多種・多量の輸入陶磁器の出土、付札等の木簡の出土などいずれも当遺跡が筑紫の客館であったことを裏付けるのに十分なものである。
このように我が国の古代において外国の賓客をもてなすのに使用した「客館」を発掘調査した結果、遺構の変遷と規模、出土遺物から時期等が確認されたことは、我が国の対外交流の歴史及びその実態を考える上で貴重であり、史跡として指定し保護を図ろうとするものである。
平成26年 追加指定・名称変更
鴻臚館(こうろかん)跡(あと)は、福岡市の中央部、史跡福岡城跡地内中央東部の平和台野球場跡を中心とする地域に所在する、古代において外国からの賓客をもてなすための客館施設の遺跡である。鴻臚館は、平安時代に平安京・難波・筑紫(ちくし)の3箇所に設置された宿泊・饗応(きょうおう)施設で、筑紫の施設は、7世紀末から奈良時代にかけて大宰府において客館として使われていた筑紫館(ちくしのむろつみ)にさかのぼるといわれる。昭和62年度より福岡市教育委員会によって行われた発掘調査の結果、7世紀後半から11世紀中頃にかけて、5期にわたる建物遺構の変遷が明らかになった。さらに、布掘(ぬのぼ)り遺構を伴う官衙(かんが)的(てき)建物群や、濃密な交流の実態を示す多種・多量の輸入陶磁器の出土、数多くの木簡(もっかん)の出土など、いずれも当遺跡が筑紫の客館であったことを裏付けるのに十分な資料が得られた。
このように遺構の変遷と規模、出土遺物や時期等から「鴻臚館」の存在が確認されたことは、我が国の対外交流の歴史及びその実態を考える上で貴重であることから、平成16年に史跡指定された。
女(みょう)原瓦(ばるかわら)窯跡(がまあと)は、福岡市西区の今宿平野に位置し、低丘陵端部の西側斜面に立地する。平成22年度に行われた福岡市教育委員会による区画整理事業に伴う試掘調査において確認され、平成23~24年度にかけて発掘調査が行われた。その結果、遺存状態が良好な5基の瓦窯跡とそれに付随する灰原2箇所を確認することができた。
いずれも地下式(ちかしき)登(のぼり)窯(がま)であるが、1~3号窯跡及び5号窯跡が有階無段であるのに対し、4号窯跡のみ、無階無段の構造である。2基の灰原はそれぞれ1号窯跡と2~3号窯跡に付随している。4号窯跡を除いて、最終操業床面以下にも還元層や炭化物層が互層に厚く堆積していることから、複数回の操業が窺える。出土した瓦の時期などから、これらの瓦窯跡の操業時期としては、3号窯跡及び5号窯跡が9世紀後半であり、1号窯跡、2号窯跡及び4号窯跡が10世紀前半と推定される。なお、最も遅く築かれた4号窯跡は瓦陶兼業窯もしくは土師器専用窯と考えられる。
出土遺物には軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦、平瓦、鬼瓦、熨斗(のし)瓦(がわら)を主体とし、土師器や黒色土器、須恵器等がある。軒丸瓦及び軒平瓦はいずれも鴻臚館跡出土瓦と同笵(どうはん)関係にあり、笵傷(はんきず)が一致するものも認められる。また、平瓦の凸面に認められる叩き目の種類も、鴻臚館跡出土のものと共通している。以上のことから、女原瓦窯跡で焼成された瓦は鴻臚館に供給されたと判断できる。
このように、女原瓦窯跡はその残存状況が良好であり、鴻臚館へ瓦を供給した生産施設のあり方を具体的に示している点で、極めて重要である。よって、女原瓦窯跡を追加指定するとともに、「鴻臚館(こうろかん)跡(あと)附(つけたり)女(みょう)原瓦(ばるかわら)窯跡(がまあと)」と名称変更し、一体的に保護を図ろうとするものである。