旧中込学校
きゅうなかごみがっこう
概要
中込学校は、明治5年の学制発布をうけ、明治6年、下中込村の小林寺を仮校舎として発足し、その名を「成知学校」と称したが、翌7年より学校の新築にかかり、下中込村字前林に敷地を買収し、8年12月にほぼ落成したので、直ちに寺より移転し、9年6月正式に開校のはこびにいたったもので、このとき校名を「中込学校」と改めた。学制によって、下中込村は「第6大学区第17中学区第7番小学」と称されたが、信州佐久の一寒村であったにもかかわらず、工事費はほとんど村内全戸の寄附でまかない、最新式の学校をたて、また設計建築を請け負うた市川代次郎は同村出身者で、アメリカより帰った新進の建築技師であったことは注目すべきである。
校舎は、洋風木造2階、屋上に八角の太皷櫓をもつ1棟で、表・裏玄関があり、表玄関のある正面にはとくに意匠をこらし、円柱を配し、一間通り吹放ち、2階にベランダを構成し、窓はガラス戸にすべて鎧戸をつけ、廊下の丸窓、欄間には色ガラスをはめ、外壁はペンキ仕上げとしている。内部は1・2階とも中廊下式で、両側に教室等を配し、寄棟造屋上にそびえる八角塔には廻階段で上り、塔の四方に窓をひらき、天井中央より太鼓をつり、塔上には東西南北を示す金属製の文字板をつけた鉄棒をたて、それに銅線を結びつけて避雷針とした。また建物の向かって右側の旗竿に、「中込学校」の校旗をたてた。明治10年に建てた聚待所はすでにないが、本館および学校敷地はよく明治初年の旧態をとどめている。